男女がいつまでも恋愛し続けるために必要なこと

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宗生です。

ルドルフ・シュタイナーは「畏敬」という感情が魂にとっての栄養のごとく必要不可欠なものであると、その著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」において書いています。魂の覚醒と進化にとって、「畏敬」は欠かすことのできないエッセンスだというのです。

しかし「畏敬」とは「畏れ敬う」ということであり「仰ぎ見る」という感覚で、縦型の関係性でもあります。人が神を仰ぎ見る。弟子が師匠を仰ぎ見る。縦型の関係性がそこにあるわけです。

近代以前は、このような縦型社会、男性性の社会が中心であり、このような畏敬の念は常に存在していましたが、そのシャドウとして支配や差別、束縛や強制といった要素もまた存在していました。

現代はそのような縦型社会が崩れ、女性性中心の横型社会、水平社会へと移行してきています。

かつては夫婦関係も、縦型社会を反映して、主人に妻が仕えるという形が一般的でしたが、いまは妻も夫も差が無くなって来ました。それゆえに、夫婦関係で畏敬の念というのはほとんど持ち得なくなりました。畏敬と思っていても、経済的な依存か、表面的な思いこみでしかなかったりします。

男女関係の初期、恋愛が始まった段階においては、男性は女性に理想の姿を投影し、そこにある意味畏怖の念を感じます。女性も同様に、男性に理想の姿を投影し、強く惹かれながらも畏れます。畏れながら惹かれあうから、情熱が沸き起こるわけです。

夫婦、男女関係においてセックスは性欲という肉体の本能的な部分から発したものでありながら、そこに畏敬が加わることで精神的な愛と結びつくと、快楽や癒しだけでなく、クンダリーニの覚醒につながる魂の進化さえ引き起こす神秘な体験になりえます。

しかし、結婚したり、長い年月付き合っていくと、そのような投影は徐々に消えていきます。そして現実の相手の姿に、しばしば失望したりします。畏敬の念は消え去ってしまいます。そこからは諦めとともに家族として付き合うようになっていきます。

夫婦から畏敬の念が失われ、恋愛感情が消えたあと、セックスは生殖行為か、性欲解消行為だけの意味しか持たなくなれば、男女関係そのもののもつ意味も、必然的に薄れてしまいます。

実際セックスレス夫婦や仮面夫婦は数多く存在していますし、結婚関係や、恋愛関係そのものに必要性を見いだせなくなっている人達が増えてきているのも、男女間での畏敬の念の喪失、という面が大いに影響しているのではないかと思うのです。

恋愛の時、相手に自分の理想を移すことを投影(プロジェクション)といいますが、ただの投影であれば、それはただの幻影に過ぎません。しかし、実はそれが相手の高次の存在を、愛と畏敬、憧憬によって強く光を当てることで、相手から立ち上がってきたものだとすれば、意味が全く違ってきます。

私たちは恋愛という強い情熱により、三次元的には盲目になることで、逆に高次元の目が開いて、相手の高次の存在をリアルに見ていると考えれば、それはただの幻想や思いこみではなく、相手の神性、本性を目撃しているといえるのです。

だからこそ、それはしばしば、現実を超えたような体験になりうるのです。

夫婦がお互いの三次元、現実の姿しか見えなかったら、いずれ畏敬の念は消え去り、欠点と欲求不満だけの関係しか残らないかもしれません。しかし、高次の相手を見ることが出来れば、お互いに相手の高次元へ畏敬の念を持ち続けることができます。

高次の相手への畏敬は、三次元の相手との愛や性の結びつきを、癒しや魂の覚醒まで高めてくれます。そこには無限の可能性と新鮮さ、若々しさがあります。まるでギューフのルーンのように(X)たがいの三次元と高次元が畏敬によって結ぶ時、男女関係はたいへん豊かに育み続けることができます。

三次元的な異性への畏敬は、いつまでも長続きしませんし、そこに執着してしまえばDVなど、暴力による畏敬の強制につながってしまいます。このような縦型の支配関係を崩壊させるべく、近代から現代の歴史があったとすら言えるわけで、むしろこのような水平社会の到来は本来望むべきことなのです。

しかしながら、水平社会化すればするほど、失われてしまった畏敬の念は、もはや三次元の中に見出すことはできなくなっていきます。しかし、社会や個人を三次元的な意識だけでなく、高次の感覚で見ることができるようになれば、その中に畏敬の念を見出すことはいくらでも出来るはずです。

妻の中に女神を見いだすのは、幻想ではなく彼女の持っている高次元存在の姿であり、同じように夫が高次元に目覚めることで、妻は彼の高次の姿を見出すことができます。互いに相手の高次の存在に畏敬を感じ、憧れを感じながら、三次元の身体を使って愛しあう時、それは単なる性欲の解消を超えた、覚醒の体験になりえます。

若者たちが、この三次元の世界でない二次元の世界や多次元の世界に、リアルな世界を求めているのは必然なのです。それはこの三次元世界の中に、見いだせなくなってしまった畏敬や憧憬の念を補完するために必要だからです。

私たちは現実の中で、ただ現実だけを見て生きていけば、結局のところ、エントロピーの増大する世界観の中でしか生きることができません。失われ、消え去り、老いて、滅びていく世界観の中では、未来や将来は憂うべきものでしかありません。

しかし、高次元の世界が加わることで、私たちはこの現実世界を強く光り輝かせてくれる、永遠と本質の世界を通して、この世界を見ることができるようになります。すると、同じ三次元が、創造的な体験の場として、魂の遊ぶテーマパークとして見えてきます。

水平社会という健全な社会の実現により、失われた畏敬の念を補完するために、必要なことは高次元への覚醒であるということ。それが男女関係、恋愛関係、夫婦関係を大きく改善するであろうということ。

そんなことを考えていました。

それではまた。

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