「愛」を得て、無事に結婚したものの、最初から我々は住むところさえ自由に選べませんでした。住む場所も、人間関係も、それどころか自分の内的な価値観さえ、自由ではありませんでした。
そのすべてが「仕事」によって決められてしまったからです。
私の両親はある宗教組織の専従者でしたが、要するにサラリーマンでした。宗教組織の勤め人というと特殊な職業のようですが、わかりやすくいえば、企業理念の非常に強い株式会社とそれほど変わりません。
会社、とりわけ大会社であれば、会社の意向というのは絶対であることは、宗教と大差ありません。
結婚した二人が自由に居を決められればいいですが、多くの場合社宅とか、年収や通勤範囲内といった制限がついてくるはずです。
さらには、歌舞伎役者とか、関取とかだったら、さまざまな慣習や伝統に縛られ、自由などほとんど無いでしょう。
私の属していた宗教組織というのは、ちょうどこの「大会社」と「歌舞伎役者」の両方の側面を持っていました。会社組織の意向(上司の命)と、内部的な決まり事(教えなど)によって、ほとんどのことは個人の意図の入る余地なく、決定されてしまうのです。
そんなわけで、私達夫婦の新居はガレージの二階でした。
私はそこから30分かけて職場に出勤している間、妻は私の両親が管理する職場で毎日奉仕をせねばなりませんでした。
まもなく、妻は妊娠しましたが、慣れない環境下で精神的にどんどん参っていってしまいました。せっかく、最愛の女性と結婚したのに、その相手が私のいない間にみるみる疲弊していくのでした。
とにかく一刻も早くそこを出たいと、出産と同時になんとか理由をつけてアパートを借りました。それでも、一ヶ月に休みは4日あるかないかで、毎日朝から晩まで拘束され、さらには夜勤もありました。妻はほとんど一人で育児をしなければなりませんでした。
これらの状況は、いまほとんど多くの人が直面している問題のはずです。
仕事によって、せっかく結婚しても、ちっとも幸せな生活が送れないのです。初めての娘が生まれ、可愛くてたまらないのに、会えるのは夜の寝顔だけ。妻も疲れきって、ろくに話もせずに眠ってしまいます。
もちろん、結婚生活を差し置いてでも、やらねばならないやりがいのある仕事だったら、妻のため、子供のためと思って必死に働いたのかもしれません。しかし、私にとってその職業は、やむなくついた仕事に過ぎませんでした。
私がなぜそんな中途半端な気持ちでその職についたのか。
例えば、ある若者は警察官に憧れ、必死で勉強し、力をつけ、やっと警察官になれるというその直前に、警察に強く失望するような事件に巻き込まれてしまったとします。ところが、今更道を変えることもできず、警察官になってしまった。
先生に憧れ、必死で勉強し、あと少しで先生になれる。そんなとき、先生の実態を目の当たりにし、理想と現実にあまりにかけ離れたことにショックを受けるが、その時点で路線変更できず、やむなく先生になった。
政治家、官僚、公務員、医師などなどなんでもいいのですが、自分が純粋に信じてきたものに、完膚なきまでに裏切られる経験をしても、それまで積み上げてきたキャリアを捨てることはそう簡単ではありません。
なぜなら、それ以外のものをイチから積み上げるには、時間が足りなさすぎるからです。
私は残念ながら、20代でその決心をすることができませんでした。宗教という世界の中で、宗教家になることを目標とし、それのみを積み上げてきた自分が、いまさら別のものになどなれるはずがない。
せっかくチャンスもあったのに、私はその機会を放棄し、親や祖父の七光と生まれ育ちの環境の中で生きるという、安楽な道を選んでしまいました。
それは、一言で言えば「自由」を「金」で売ったということです。
おかげで、私は「給料」という定期収入と引き換えに、多くの自由を失ってしまったのでした。独身でいた時は、大してネックにならなかったその不自由さが、結婚によって私の人生を大きく侵食してきたことに初めて気付かされたのでした。
私は妻や子どもたちとの毎日の生活を何よりも大切にしたいと願っていました。でも、それがまったくできないなら、なんとかして「自由」を取り戻すしかありません。
しかし、一度手放してしまった自由は、そう簡単に取り戻せませんでした。
従業員、専従者など、給料によって契約された者に、選択の自由などなく、時間の自由などなく、収入の自由もなく、それどころか思考や感情の自由さえない。そんなことに、徐々に気付かされていったのでした。
100%の愛を実現するには、赤の円だけではダメだったのです。だからといって、自由だけを求めて愛を手放してしまえば、せっかく得た愛も失ってしまうでしょう。
「愛」と「自由」をともに得ることはできないのか?
周囲に相談しても、「そんなのはただのわがまま」「自己中心的」「二兎を追う者一兎をも得ず」など、ボロカスに言われるだけでした。
でも、私はどうしても、それを実現しないわけにはいきませんでした。なぜなら、内側か聞こえてくるその「耳障りな声」、直感の声は、毎日毎日私の中で、文句を言い続けていたからです。
「こんなのはおかしい」「こんなのはまちがっている」「いつまでこんながまんをつづけるつもりなんだ?」と。
私はそんな雑音を封じめるべく、何度も耳をふさぎましたが、その声は決して消えません。それどころか、どんどん強くなっていきました。
私は混乱し、悩み、苦しむ歳月を10年近く過ごしました。その間、内なる声を無視した人生を生きた結果、心を壊し、命を絶ってしまう人を何人も見てきました。やがて、私も心を壊し、体を壊してしまいました。
ついに40歳を目前に、やむなくその声に従う決意をしました。
私はこのとき、4人の子供を抱え、何の蓄えもなく、助けてくれる人もないまま、退職をしました。
それからも、しばらく宗教の束縛は続きましたが、何年かかけてそこから脱し、思考的にも、行動的にも、ほとんど縛られることはなくなりました。しかし、そのかわり、経済的には完全に行き詰まることになりました。
「愛」「自由」を両立させるだけで不十分なのは明白でした。真の幸せを確立するためには、もう一つの重要な柱を建てなければなりませんでした。
40を迎え、ついに私は最も苦手でもっとも難しい、3番めの課題に向き合わなければならなくなったのでした。
それではまた。