こんにちは、宗生です。
音楽の話二回目です。
私がモーツァルトを好きになる前、
ずっと聴き込んでいたのがワーグナーでした。
私の師匠に当たる方はワグネリアンで、
学生の私を連れて行ってくれた初めてのオペラが
「トリスタンとイゾルデ」だったからです。
当時私は、自分が信じていたものが失われてしまい、
これから何を信じて生きていけばいいのかわからず、
東京で一人暮らししながら自分探しをしていました。
そんななか、師匠が教えてくれたシュタイナーの本を
集中して読みながら、翻訳者の高橋巌氏に強く惹かれました。
たまたま横浜のカルチャーセンターで講演会を行なっていることを知って、
毎週のように通う中、ドイツの芸術について語る高橋氏の影響で、
ワーグナーにも強く関心をもつようになりました。
ちょうど私は早稲田大学の図書館に勤めながら夜学に通っていたのですが、
出来たばかりの綺麗な図書館には、すばらしい視聴覚室があって、
クラシックのCDやビデオが大量に蔵められていました。
私は、仕事が終わると、視聴覚室に赴いては、
ワーグナーの長大なオペラを一幕ずつ見て行きました。
「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」「タンホイザー」
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「トリスタンとイゾルデ」
そして「ニーベルングの指環」の長大な4大楽劇。
ちょうどドラクエやWizardryなどのRPGの影響で、
北欧神話的なファンタジーがツボだったこともありますが、
闇と官能と罪の意識を徹底的に描くワーグナーの作品は、
一つ一つが重く、難解でしたが、
闇に沈み込んでいた私にはぴったりで、
ずっとその闇の中に一年ほど佇んでいました。
指輪物語やゲド戦記などの重厚なファンタジー小説に出会ったのも
この頃でした。
で、最後に見たワーグナー作品が、
舞台神聖祝典劇パルジファルでした。
相当難解な作品なんだろうと覚悟して見たら、
ニーベルングの指環とは全く異なって、
とてもわかりやすく、すっきりと入ってくる物語で、
光を強く感じさせてくれる物語でした。
一言で言えば、この物語は、
「救いとは何か」をテーマにしていました。
聖杯騎士団の長であるアンフォルタス王は、
かつて、邪悪な魔法使いであるクリングゾルを倒しに、
聖槍を持って戦いを挑みましたが、
クリングゾルに操られている魔女クンドリに誘惑され、
魅力に負けたことで、逆に聖槍を奪われ、
傷を追ってしまいました。
つまり、アンフォルタス王は性欲に負けてしまった聖騎士なのです。
にも関わらず、彼は生きながらえ、
聖杯を守るため、儀式を行なっているのですが、
罪悪感によって苦しみ続けていました。
その王を救うことができるのは、
ただひとり「純粋な愚か者」による「共苦」だけ、
と予言されていました。
あるとき、聖杯城の近くの湖に、
傷を癒しに出たアンフォルタス一行のもとに、
一人の若者が、軽い罪を犯して引き立てられてきます。
聖なる森で、無邪気に弓を使って白鳥を射落としたのです。
アンフォルタス王に使える老騎士グルマネンツは、
この者こそ、予言にある「純粋な愚か者」ではないかと期待し、
聖杯城へと連れ帰ります。
聖杯城では、聖杯の儀式が執り行われ、
その中心にアンフォルタス王は立ちますが、
彼は激しい苦しみを訴え、儀式の遂行に抵抗します。
罪の意識と傷の苦痛で、彼は死にたいとすら思っています。
しかし、自殺できないため、誰かに殺して欲しいと願っています。
そのような苦しみあえぐ姿を見た若者は、
驚きますが、愚かすぎてその意味も理由も理解することができません。
グルマネンツは失望し、若者を追い出してしまいます。
しかし、若者はアンフォルタス王に傷を負わせた
邪悪な魔法使いクリングゾルを探し求め、
ついに魔法使いの城にたどり着きます。
クリングゾルを倒すために、進んでいこうとすると、
魔法に操られたクンドリが現れ、若者を誘惑します。
そのとき、クンドリは若者に「パルジファル」と呼びかけます。
若者は誘惑に負けそうになり、口づけをかわしてしまいますが、
その瞬間に、アンフォルタス王の激しい苦しみと痛みを理解し、
クンドリの誘惑をはねのけてしまいます。
アンフォルタスは、この誘惑に負けたために、
深い傷と心と体に負ってしまったのだ、と、
パルジファルは深く理解し、共感するのです。
自分もまた、一歩間違えば同じように誘惑に負け、
同じ苦しみの中にいただろうと。
このようにして彼はアンフォルタス王の苦しみを理解します。
クリングゾルはクンドリの誘惑が失敗したことを知り、
聖槍を持ってパルジファルに挑みかかりますが、
誘惑に屈しなかったパルジファルを傷つけることはできず、
逆にクリングゾルが聖槍によって倒されてしまいます。
聖槍を奪還したパルジファルは、
クリングゾルの呪いによって迷いに迷い、
長い年月、さまよい歩くことになります。
ようやくそこから抜け出せた時、
パルジファルは純粋な愚か者ではなく、
偉大な救い主、賢者となって聖杯城に現れます。
アンフォルタス王は、長年の苦しみにより、
もはや聖杯の儀式に耐え切れ無くなっており、
周囲の騎士に自分を殺すよう命じます。
そしてついに殺されるという刹那、
パルジファルが聖槍を持って城内に現れ、
アンフォルタス王の傷に当てると、
その傷はたちどころに癒されるとともに、
パルジファルは王の苦しみを理解し、
その罪の意識から開放させます。
このようにして、パルジファルは、
聖杯城に聖なる槍を取り戻し、
アンフォルタス王を苦しみから解き放つと同時に、
新しい聖杯城の王となったのでした。
という物語です。
これは、ワーカーやカウンセラーにとって、
とても大切なことを教えてくれる物語です。
それは「救い」とは何か、ということです。
西洋的な価値観、キリスト教的な価値観による救いとは、
「上のものが下のものを助けること」です。
神が子を救う。神の子が、人を救う。
つまり、恵まれたもの、強いもの、正しいものが、
貧しいもの、弱いもの、間違ったものに、
恵み、助け、教え、導くことを指します。
しかし、それは本当の救いなのでしょうか?
かつてキリスト教を布教した人たちは、
例えば未開の地に赴くと、
原住民族を「未開人」「異教徒」として、
キリスト教に改宗させることが救いであると考えました。
その結果、多くの文化が失われ、さらには虐殺などの
悲惨な歴史を産みました。
上から下へ、何かを押し付けることは、
上の者が勝手に救いと思っているだけで、
実はありがた迷惑なだけ、ということも、
現実にはよくあることです。
宗教者、教師、政治家、医師など、
多くの「救い」を行う人達がいますが、
それはどこか、上から目線な部分を含んでいます。
それが、本当の救いなのか。
ということを、この物語は問題提起します。
「共苦」
純粋な愚か者であったパルジファルは、
アンフォルタス王を裁きませんでした。
肉欲に屈した聖騎士など、
本来許させるものではなかったでしょう。
しかし、パルジファルのそれは、
イエスそのものの説かれた本来の意味での「愛」の発露であり、
すなわち「苦しみを共にする」ということです。
それも、単純に、同じ苦しみを経験するということではありません。
いっしょになってただ苦しんでいるだけでは、
それは同情であって、
やはり救いにはなりません。
苦しみを理解する、その痛みを理解するだけでなく、
その苦しみに負けず、乗り越える力が要るのです。
それが「愛」であり「光」の力だろうと思うのです。
どのような闇や痛みでも、
必ずそれには価値があり、意味がある。
その意味を理解し、罪の意識から解き放つとき、
はじめて人は救われたと感じるのではないか。
私はかつて、そのように上から目線で「救い」を行なっていると
信じている多くの人たちに接し、強い違和感を感じてきました。
そして、実際自分が深い苦しみに落ちた時、
その人達の誰もが私を理解しようとしませんでした。
常に上から私を見下ろし、憐れむか、
正そうとするか、無視しました。
そのたびに私は強い無力感と孤独を感じたものです。
そんななか、私の師匠だけは、私の話を聞いてくれ、
理解をしてくれたのでした。
カウンセリングのちからを知ったのは、このときです。
相手の深い心の痛みを理解しつつも、
その痛みに屈するのではなく、
その上で相手の苦しみにうちひしがれた心を、
乗り越える力を自分の中に見出すとき、
真の救いがそこに起こるのではないか。
それは一方通行ではなく、
上から下へ起こることでもなく、
フラットな二人の中で起こる、
セッション・共同作業なのです。
私はそのように考えています。
もちろん、だからといって常に出来ているわけではありません。
難しいことです。うまくいかないこともあります。
でも、それは常に理想として、
持っていなくてはならない姿勢だろうと思っています。
この物語に出会ってから、
私は自分の心のなかから聞こえてくる声、
高次元の声を「パルファ」と名づけました。
さすがにパルジファルと名付けるのはおこがましいので、
パルファと縮めて呼んでいます。
更に縮まっていまは「パルっち」になってます(笑)。
二年の東京生活の締めくくりに、
このパルファを主人公にして、
私は長大な物語を書きました。
その舞台になったのが「アイントライ」という島国で、
アイントライの王女であり、
パルファが心から愛する女性を「リーベル」と名づけました。
パルジファルと魔笛の2つ物語に触発され、
導かれるようにして書いたこの物語は、
その後、唯一の読者となった直子によってはじめて評価され、
それをきっかけに付き合うことになりました。
この物語はいまも私の基礎になっています。
そんな私の内的な礎となっている2つのオペラについて、
少しだけ語ってみました。
何かの役に立てば幸いです。
ではまた。
©Muneo.Oishi 2012