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執着を取るには

Bukelon Fortress

こんにちは、喜龍一真です。

前回、変化したいと思っているはずなのに、変化できないとき、その変化を妨げているのは、執着が主な原因であると書きました。そのことについて、より詳しく書いてみます。

前回、多くの人は頭の願い=顕在意識の願いと、真の願い=潜在意識の願いが食い違ってしまっていると書きました。

頭では今の生活の中に満足できない部分があり、新しいことに挑戦して変えていきたい、変わりたいと願っている。でも、いざそうしようとしても、足が前に出ない、やる気が失せる、心配が足を引っ張るなどして、前に進めなくなってしまう。

それは、自分がまだ力が足りないからだと思い、数多くの学びを重ねても、自信にはつながらず、行動できない。

それは、顕在意識では変化を求めていても、潜在意識は変化を求めていない、むしろ安定を求めている。だから、そこで綱引きが起こってしまう。変わりたい思考と、変わりたくない無意識との果てしない綱引き。

そんなとき、無意識が意識に対して抵抗する常套手段は「無気力」です。

まるで、学生時代に「勉強しなきゃ」と頭ではわかっていても、いざ机に座ると、マンガや雑誌を読んでしまったり、落書きをしたり、ゲームをしたりしてしまって、いつまでたっても勉強に手がつかない。

好きな人がいて、頭ではもっと近づきたいと思うのに、いざ本人を目の前にすると、怖くなって逃げ出してしまう。

皮肉なことに、我々の意識が強く願えば願うほど、抗うように無意識は抵抗し、意識のやる気を削ごうとするものなのです。

それが「執着」のせいなのだと言っても、最初はピンと来ないかもしれません。

わかりやすく言えば、「執着」とは「慣性の法則」のようなものです。

「慣性の法則」とは、止まっているものはずっと止まり続けようとし、動いているものはずっと同じ速度で動き続けようとする、ニュートンの唱えた運動の第一法則のことです。

宇宙空間では、摩擦が起こらないので、一度運動し始めれば、同じ速度で動き続けます。それを止めるには、反対の力で運動を加えなければ、絶対に止まりません。

同じように、我々の無意識・潜在意識には、「慣性の法則」が働いています。

たとえ、現状がどれほど自分にとって不幸であろうと、不満であろうと、その環境自体を受け入れてしまおうとします。そして変化よりも、変化せず、できればすべてそのままであり続けることを望みます。

リスクを取って全てを失うくらいなら、我慢してでも現状維持を取ろうとします。

なぜなら、変化とは「災害」や「事故」など、ネガティブなことに直結することが多いからです。

穏やかな晴れの日がいつまでも続けばいいと願っても、自然界では嵐が来たり、雷が落ちたり、地震や津波が起こったりします。すると、時に安定していた世界はズタズタに破壊されてしまいます。

日本人は、先祖代々安定しない日本列島という火山の島に住み、数多くの災害に苦しんできました。それが「変化に対する強い恐れ」として、インプットされてしまっています。

だから日本人は、変化よりも安定を求める傾向が強いのです。

日本人の集合的無意識の中に、このような「変化に対する抵抗」「安定に対する強い執着」が働いています。それは、さらに個人個人の環境や性格によって強化されています。

変化による挑戦よりも、リスクを取ること、失敗を恐れる気持ちのほうが強いのです。絶対的な保証がないかぎり、前に進めない。少しでも心配のリスクがあれば、動き出すことができない。

これが執着の本質です。

しかし、変化の本質とは、流れです。流れとは、新陳代謝であり、どんどん捨てて、新たなものを得ていくことです。失うことを恐れるのではなく、進んで失うことなのです。これは執着とは180度正反対のモーメントです。

「断捨離」すなわち、使わない所持物を全部捨ててしまうことが有効なのは、執着のもととなっている物質自体を捨て去ることで、執着が機能しなくなるからです。

このように、自分の意志で変化を起こそうというのなら、まず自分の潜在意識にある、これらの執着をなんとかするしかないのです。

でないと、潜在意識はいちいち顕在意識のやろうとすることに、「やる気を削ぐ」ことで対抗してきますので、いざとなるとちっとも前に進まない、ということになってしまうわけです。

この無意識の抵抗のおもしろいところは「三次元の変化」という制限があることです。

家とか仕事とか人間関係や収入といった、目に見える手に触れられるものの変化を恐れるのです。だから、逆に言うと心理的な変化、内面的な変化だけなら、許容できるのです。

なので、いくらスピリチュアルの世界で学び、自己を変えることができたとしても、それはあくまで「現実に影響を及ぼさない」範囲に限って、ということになってしまうわけです。

だから「執着」という封印を解除すれば、そんなに苦労しなくても、勝手に変化し始めるのです。

ではどうすれば、この「執着」を解除できるのでしょうか。

実はすごく簡単で「自分の人生がうまく変わらないのは、自分の執着のせいなのだ」としっかり納得がいけばよいのです。これを「悟り」といいます。

多くの人が、なかなかうまく行かないという体験を繰り返すのは、現実を作り出しているのが、自分の真の願いだと認められないからです。だから、自分の執着のせいで、現実が変わらないということも、なかなか認められません。

だから、絶対に自分は変えず、現実のほうをなんとかして変えようとし続けるわけです。でも、それはどこまでやっても、うまくはいきません。

うまくいかないという経験を満足するまでしないかぎり、決して音を上げないのが人間の性みたいです。だからお釈迦様は「諦め」を説いたのです。

でも、「さすがにもういいかな」というくらい、うまくいかない苦しみを味わうと、自分の執着を解放する許可がくだせます。そうすれば、方法はいくらでもあります。

「ごめんなさい。無理でした。助けてください」と高次元に宣言すれば、それまではこちらの自由意志を尊重して、手を引いていた高次元も、再度コミットメントを始めます。

十分に納得している人は陰陽師や錬金術での封印解除でも可能です。

まだ十分納得出来ない人は、箱庭療法などで自分の封印がたしかに自分の中にあると理解した上で、封印解除可能です。

レムリアンサージャリーのワーク内でもかなりの方が「変化」を望み、「執着」を手放していかれました。いずれも「変化できない自分の執着を認めつつ、それを手放すことを自由な意思のもとで選択する」という形で、手放すことを望まれたのです。

しかし、これらのパワフルなワーク無しで執着を取るというのは、なかなか簡単なことではありません。

少し前に進めば、また執着という名の抵抗にぶつかります。そのたびに、それを解除しなくてはなりません。道はどこまでも続いています。

岡田自観は「信仰の目的は我と執着を取ることである」と述べていますが、そのとおりだと思います。

潜在意識(無意識)はパワフルではありますが、なかなか融通がききません。その点、顕在意識(思考)はパワフルではありませんが、自由自在に変化できます。我々自身の人生を自由に変化できるのは、顕在意識、すなわち思考が望むことからしか始まりません。

ルドルフ・シュタイナーは「自由の哲学」の中で、人間を自由たらしめるのは「思考」のみであると説いています。まさにそのとおりだと思います。

まとめます。

変化したくないという「執着」がとれて、変化という「自由」を得るのは、うまくいかないのは自身の「執着」のせいなのだと「悟り」、「我」でなんとかしようとするのを「諦め」て、高次元とともに生きることを再選択し、他者の望みではなく、真の自分自身の望みを「求める」ときに始まります。

イエス・キリストの「求めよ。さらば与えられん」はそういう意味です。

では、何を求めればいいのでしょうか。

この続きはまた次回に書きますね。

©Muneo.Oishi 2015

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