投影されるアイドル(偶像)たち

Niconico Chokaigi:Titani

こんにちは、喜龍一真です。

前回、恋愛と元型、そしてプロジェクションについて書いてきました。

男子は男性として、女子は女性として、それぞれのアイデンティティ(自己同一性)を作り上げてくるわけですが、思春期頃から潜在していた、異性の元型が自分の中から目覚めてくると、それはこれまでの性アイデンティティを覆しかねません。

そこで防衛機制としてのプロジェクションが働き、外部の異性に投影して、その異性と性的に結合することで統合しようとします。

恋愛と一言で行っても、感情レベルの動きに従って、だいたい3つの段階に分けることができます。

1 憧れる:空想的異性像への憧れ
2 惹かれる:空想的憧れに性的魅力が加わり強く惹かれる
3 求める:一時的な性的結合による心と体両面での統合

このあたりは、以前書いた「運命のパートナーと幸せな結婚をするには」という小冊子に詳説してありますが、細かく書きすぎていてわかりにくいので、ざっくり言えば上記のような流れになります。もちろん、3→2→1という逆パターンもありますし、2→3→1というのもあるとは思います。

いずれにせよ恋愛というのは、心と体が両面伴ってはじめて満足に至るものであり、体だけ(性欲だけ)、心だけ(プラトニック)というのは、両極に偏ったものだけに、なんとなく何かが欠落していると不満を抱く事にもなります。

ただ、このあたりは個人的な嗜好もあるので、あくまでざっくりな説明です。

問題なのは、この異性に対し「憧れる」ことが、今はものすごく難しくなってしまっている、ということなのです。

自分の中から覚醒し始めた異性の元型を外部に投影するには、誰かが投影させてくれないと、成り立ちません。しかし、それはリアルな相手のもっぱら外見的なイメージがトリガーになるのであって、内面の性格などは実はあまり関係がありません。

では、その外見的イメージとは何かというと、それを「ペルソナ」といいます。

ペルソナ=仮面のことです。

子どもはペルソナを持っていないため、どこでも思ったこと、感じたことそのまま表現します。なので、純粋とも言えますし、動物的とも言えます。

しかしそのままでは、潤滑に仕事をしたり、コミュニケーションすることができません。大人になるに従って、社会生活を送るには、ペルソナをつける必要があるということを、学ばされることになります。

ある意味、三次元で生きる「自我」というのは、このペルソナを身につけていく段階で、はじめて出てくるとも言えます。

外なる顔と内なる顔、建前と本音、現実と理想など、自分自身の内面とは一致しなくても、社会が必要とする際には自分の本音を抑えたり、役割を演じたりしなければなりません。

思春期での反抗期というのは、まだエゴもペルソナも弱いため、社会の矛盾する要求にいちいち反発して抵抗するために起こります。

なので、心理学では思春期のことを「蛹の時期」といったりもします。

大人になるということは、しっかりしたペルソナを見につけ、本音を秘めて、自我を守れるようになることであるわけで、これがうまくいかないと、いくつになっても外と内の矛盾が許せなくて、人に対していちいち反発したり、抵抗したりという、めんどくさい大人になってしまうわけです。

思春期頃、急激に恋愛に感心をもち、恋愛感情が活発化するのは、異性の元型が覚醒してくることと、同時に不完全ながらペルソナを身につけ始めることで、異性に対する憧れを反射させてしまうからです。

つまり、男子なら「かっこいい男子」というペルソナを身につけることで、女子の「カッコイイ男子」に対する憧れを反射できるようになるわけです。

ペルソナが、プロジェクションに対するスクリーンになってしまうわけです。

恋愛を引き起こすメカニズムを、一貫しているのは、強烈な妄想と幻想がエンジンになっているということです。このまやかしのシステムの中にどっぷりつかりこんだ時にはじめて、身も心もゆさぶられるような恋愛を経験できるのです。

ところが、今はこのシステムが、ほとんど機能不全を起こしてしまっています。

まず、多くの人がちゃんとしたペルソナをもちません。「ありのままで」というと聞こえはいいですが、「本性をそのまま」見せたら、それはペルソナではなく、単なる自我の露出に過ぎません。

これは、どこかのネタで見て笑ったのですが、彼氏が「薄化粧の女の子が好き」と言ったからといって、真に受けて化粧を薄くしたら、かえって逆効果になってしまうだけです。

彼が言っているのは「もともと化粧しなくてもいいくらいカワイイ子が好き」と言っているのです。女子からすれば、そんなのはただのファンタジーにすぎません。

これは男子側から見た女子も同じで「外見より性格よね」と女の子が言うのを真に受けて、外見を適当にしておいても、絶対に女の子は好きになってくれません。

この本意は「外見だけかっこよくても性格が悪くちゃダメよね」と言っているのであって、外見がかっこいいのは前提条件なのです。

美少女やイケメンがこれほど需要が高いにもかかわらず、世間ではほとんどそんな完璧な人間は存在しません。だから、そもそも憧れを反射させる相手が、周囲にまったくいないということになってしまうわけです。

これが例えば源氏物語などの平安貴族ならどうかというと、男女がばしっと立て分けられ、相手の顔もろくに見えない中で、和歌と衣装だけを頼りに恋愛をします。

現代の視点から見ると、よくそれで恋愛できるなと思いますが、相手に投影するにはこれほど優れたシステムはありません。

相手のリアルな姿は完璧に隠され、ファンタジーだけの存在になっています。だから、相手にいくらでも投影できるので、勝手にどんどん心が膨らみ、暗闇の中で結ばれてもいっさい失望がありません。

戦前も、多くの夫婦が見合い結婚でしたが、これも恋愛結婚ではないから気の毒、と多くの人は言いますが、私の祖父がよく話していたのは「恋愛結婚ではなく、結婚恋愛だった」でした。

戦争で大陸に遠征する最中、いつ死ぬかもわからない極限状態の中、妻と何度も手紙でやりとりしていると、何も知らずに見合い結婚した相手にもかかわらず、日増しに相手への恋愛感情は強く大きくなっていったと言うのです。

このように、相手に投影するには、できるだけ遠くて、リアルが見えないほうがいいのです。だからこそ、安心して投影する中で、その投影像を強く求めて一体となった時、はじめて自分自身の欠落が埋まり、統合されていくという難事業を完成させることができるわけです。

しかし、現代ではあまりに異性の姿がアケスケになりすぎてしまいました。

男子は女子のペルソナの奥のリアルな女子を覗きこんでしまうことができます。女子も男子に憧れるを持つ以前に諦めてしまっています。そうなってくると、周囲の生きている人間では、恋愛になりません。体だけの関係、形だけの関係しか、なかなか成立しないということになってしまいます。

そこで、三次元のアイドルや二次元の萌えキャラに、投影することになるわけです。そこへしか持って行き場がないからです。

ジャニーズにアイドルたちは、徹底的にリアルな自分を消し、テレビの中だけでなく、人生そのものをかけてペルソナを演じ続けます。逆にペルソナを自分自身と同一化するように、ペルソナを真の自分として生きているようにみえるほどです。

彼らはまさに、プロジェクションのスクリーンとしてのプロであり、莫大な数のファンが強烈な投影を起こして恋愛状態に陥っても、しっかりと受けきっているわけで、それは本当にすごいことなのです。

逆に、ワンオクのタカのように、ペルソナではなく自我の個性を表現していきたい人にとっては、ペルソナを自分自身とするまでエゴを消し去ろうとするアイドルはまさに生地獄だったとも言えるわけです。

タカはそれだけでなく、親子関係の問題や二世の問題も抱えていますから更に大変です。

スキャンダルを起こしてジャニーズのグループを脱退し、危機的な状況を乗り越えて、いまのワンオクの成功へとつながっていく歴史を見ると、彼がどれほど苦労したか、ペルソナとエゴの問題に苦しみ続けてきたかをうかがい知ることができます。

逆に、キムタクがアイドルのままなぜ結婚できているかといえば、強い自我の力でペルソナと真の自分の区別を、強固に保ちつつ、他者からは見分けもつかないくらい自然に切り替えているからでしょう。

ヤフコメに「キムタクはすごい。ずっとかっこいい男でい続けるのがどれほど難しいか」というコメントがありましたが、私も同感です。

逆に、AKBグループのメンバーがしばしば問題を起こすのは、プロというよりも、もとがアマチュアのグループなので、プロジェクションを受けきるだけの訓練を受けていません。努力によって必死に応え続けていても、自分を完全に捨てきることはできませんから、気を抜くと個々の自我が走って、スキャンダルや問題を引き起こしてしまいます。

やりたいことを我慢して、ファンのためだけにアイドルをやり続けるのは、この年令の女の子には過酷すぎます。他者のプロジェクションをすべて受けきる、理想の偶像(アイドル)になりきるには、それくらい大きな自己犠牲が伴うのです。

例えば、Perfumeは三人共小さい頃からアイドルとしてのメンタリティを作ってきており、Spending all my time(私のすべての時間を捧げて)という楽曲のとおり、人生をすべて捧げてPerfumeをしています。

だから10年活動を続けてきても、ほとんどスキャンダルを起こしていません。それは大きな自己犠牲の上に成り立っているともいえるわけです。

逆にきゃりーは「もんだいガール」の歌詞のように、偶像のアイドルであること自体を拒否しています。可愛さの中に、あえてグロテスクさや毒、気持ち悪さといった、ネガティブなエッセンスを混入させて、プロジェクションによる理想化を拒絶します。

このように、人間がプロジェクションを引き受けようとすると、そのために人生かけてのぞまなければなりません。おのずとそれができるのは限られた人になってきます。そこで、どれほど投影してもビクともしない二次元のキャラクターへと、投影が向けられていくことになるわけです。

しかし、当然ですが、これらの方法には限界があります。それについては明日書きます。

それではまた。

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