天才:凡人=リア充:非リア充

Anger of Starbucks!!

こんにちは、喜龍一真です。

昨日の続きを書きます。

「あれ、日曜はお休みじゃないの?」という方もいらっしゃると思いますが、昨日はたまたま更新してしまったので、もし未読の方は昨日のブログを読んでから、戻ってきてください。

■□■天才と凡人■□■

現代社会の中での、目に見えない大きな差別。「天才」「凡人」この差は、目に見えないだけにとても理不尽な気がします。まだ、奴隷制度やカースト、士農工商などの身分制度のほうが、「生まれ育ち」という目に見える要因だけにマシと、言いたくなるくらいです。

「天才」「凡人」の差は、そのまま人格の肯定否定に直結します。身分制度はその人の人格や能力に無関係に、環境がそれを決めるわけで、外的要因ですから、まだ怒りのぶつけようがあります。人格という個々の能力に直結する部分において、天才と凡人、勝者と敗者という分別をされてしまったら、怒りの持って行き場さえありません。

本来、自分にはなにか特別な能力があるはず、という思いはすべての人が持っている予感のようなものです。だれだって、自分が生まれてきたことに、なんの意味もなく価値もないなんて、思いたいわけがありません。しかし、このメッセージは昨今より強く、明確に響き始めています。

■□■中二病と蔑む心性■□■

「中二病」という言葉があります。若者を中心に「ゆとり」とセットで侮蔑的によく使われています。

例えば、中学二年生くらいの子が、ドラゴンボールの孫悟空に触発されて、「自分にもカメハメ波が打てる!」と思い込み、必死で練習したりとか、バリバリ伝説の巨摩郡みたいに、世界グランプリで優勝するんだ!といって、自転車で暴走したりとか、そういう痛い行動を「中二病」というのです。

それが今では拡大解釈されて、「自己の無力さを顧みず、世界平和とか、自己実現とかほざく、青臭いバカ」のことを蔑んで使われる言葉となっています。最近では、SEKAI NO OWARIというバンドの深瀬くんというボーカリストはその典型としてよく叩かれています。

私のように、中年にもなって未だに自己実現とか、世界の矛盾とかに対して、熱心に思索している人間も、十二分に中二病患者ということになります。そんなわけで、セカオワもきゃりーもワンオクも好んでよく聞いています。

このように、「自分の中の特別さ」を手放さない人を侮辱したくなる心性は、裏返せば「自分はとっくに、自分は特別、なんて希望は捨ててしまったのに、いつまでそんな幻想にしがみついてるんだ、このクソが」という、ものすごい怒りがあるわけです。

本当は自分だって、特別だと思いたい。しかし、エリートでもなく、天才でもなく、ただの凡人にすぎない自分の、どこが特別だというのか?

そんなものすごい怒りと憎しみみたいなものが、若者だけでなく、現代人全体の中に、ものすごく強く圧縮されてきているのだと思うのです。

■□■怒りのはけ口■□■

このような理不尽な世界のありように対し、どこにこの怒りを持っていけばいいのでしょうか。

昔の人は、政治が悪い、政治家が悪いと何でも政治のせいにしたがりますが、もともと政治自体が、この多様化した世界を相手にするには力不足なわけですから、現代の人はそもそも期待自体をしていません。

他国は「日本人は災害時にも文句ひとつ言わない」といって驚きますが、それはいくら怒りのはけ口を国や政治に持って行っても、国力が衰退することはあっても、良くなることなど決してないと、諦めているからに過ぎません。

上記のような理由から、自分が常に受けている理不尽な暴力を行った悪者に向けることでしか、このような理不尽な怒りを晴らすことなどできない、ということになるわけです。

だから、DQNと言われるヤンキーがコンビニ店員を土下座させるとか、平和な島からやってきた人気者の少年を妬んだ者たちがナイフで残酷に殺してしまうとか、そういった最近頻繁に起こる「弱者が強者によって理不尽な暴力を受ける」という構図に、ものすごく過敏に反応します。

また、これまでエリートとして賞賛されてきた人間が、じつは不正だったという場合、例えばSTAP騒動などもその典型です。世間の賞賛と酷評が手の平を返したかのようにダイナミックに発生し、そこに、エリートに対する強い怒りが延々と注がれ続けることになります。

■□■リア充と非リア充■□■

かつて団塊の世代は貧富の差に怒り、学生運動を起こしましたが、現代世代は自己実現の理不尽な差別に対し、怒りの持って行き場を、外の世界にではなくネットの世界にぶつけているわけです。

「天才」「凡人」という言葉は古い言葉なので、若い人には響かないかもしれませんが、「リア充」「非リア充」ならすぐわかるはずです。

バブル崩壊以前まで、このような精神状況というのはありませんでした。それはネットという情報共有によって、勝者と敗者が「リア充」「非リア充」という線引で、ものすごく残酷に明らかにされるようになってしまったということが一つあります。

才能に恵まれて、友人にも、お金にも恵まれ、自分のやりたいことをやって成功し、家族にも恵まれ…なんて人を、「リア充」といいます(リアルが充実している人、の意)。

そんな人がネットを見れば、自分の周囲にいくらでもいるということがわかってしまいます。そうすれば、いかに自分がとるに足らない無力な存在か、思い知らされることになります。

ミクシィやFacebookなどのSNSが普及したことで、コミュニケーションは時空を越えて一気に広がり、楽しい交流ができるようになりました。このようなポジティブな側面の裏側には、リア充と非リア充という線引を鮮明にさせすぎてしまうことで、怒りや嫉妬、無力感などを強めてしまうというネガティブな側面も、あるということです。

この問題のややこしいところは、リア充と非リア充という一見二種類の人種が存在するみたいに思えますが、実際は「段々畑」のようになっているということです。

「非リア充」が「リア充」と思って妬みや怒りを感じている、その上位の相手も、実際は自分が「リア充」とは思っておらず、より上位の「リア充」に対して「自分は負けている非リア充だ」と感じている、という構造があります。

「リア充」という言葉にはぴんとこなくても、FBなどで他人の書き込みを見て、自分と比較して動揺したり、焦りを感じたり、ということのない人はいないのではないでしょうか。

つまり、これはラットレースみたいなもので、どこまで行っても勝者などいないのです。

■□■アセンションによる高次元の覚醒■□■

もう一つの理由はアセンションに伴う次元上昇です。

こっちは眼には見えませんが、より強力に、人々の内観に大きな作用を及ぼしています。かつては、高次元意識を開発するとか、修行するなんてことをするのは、ごく一部の人々でしかありませんでした。修行僧とか、思想家とか、一般人からはかけ離れた、異質な人だけが行うことでした。

ところが、現在はアセンションがすでに発生した後の世界です。

アセンション=次元上昇という言葉通り、我々の意識そのものの次元が、地球の変化に伴い勝手に上昇していきます。すると、何もしていなくても高次元意識が、半端に覚醒してきてしまうわけです。すると、どうなるかというと、すべての人達に高次元存在、すなわち高次の自己というのが存在しますから、それが覚醒して呼びかけてくるわけです。

「あなたは特別な存在だよ」「私の声に気づいて」と。

この声が、付かず離れず、すべての人の心の中に届き始めています。例外はないはずです。この地球全体がアセンションしていくなら、そしてアセンション後の地球を(無意識にでも)選択してしまった人々であるなら、必ず高次元からのメッセージが、すべての人にうっすらながら届きだしているはずです。

それも若い人ほど、より顕著に。

にも関わらず、この社会の有り様は、先にも書いたように「リア充」と「非リア充」の「弱肉強食社会」です。そして、社会が突きつけてくるのは「お前は凡人だ」「おまえに特別なものなど何もない」というメッセージなのです。

選ばれたごく一部の勝者だけが勝ち残り、多くの敗者は自分の望みの多くを諦めるしかない。そんな社会との、ものすごく大きなギャップ感が、この怒りを加速度的に強めているわけです。

高次からやってくる「あなたは特別だ」という声と、三次元がつきつける「おまえは凡人だ」という声。その2つのどちらを信じるのか、どちらを選択するのか、多くの人、とりわけ若者たちがこの分裂に、苦しまされているのです。

この2つの理由が、現在我々が感じている、集合的な怒りの膨満感と、その噴出に伴う残酷な暴力に対する恐怖の理由なのでは、と考えています。

しかし、ここまでわかれば、これは未来に向けての、非常に大きなポジティブな変化である、とみなすことも可能になってくるはずです。その過渡期における、産みの苦しみと捉えることができるわけです。

さて、昨日私が発した疑問に対し、高次元存在が見せてくれた回答のメタファー(比喩)が「iTunes Match」だと書きました。これは、いったいどういうことか、というのを説明する前に、iTunes MatchやiPhoneについて、知らない人も多いと思いますので簡単に説明しておこうと思いますが、それはまた明日ですね。

ではまた~。

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