高次元マスターとの交流と才能について

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こんにちは、喜龍一真です。

今日は日曜日なので、更新もお休みのはずなのですが、(私にとっては)とてもおもしろい情報が高次元から下りてきたので、忘れないうちに書いておこうと思います。

才能について、考察していたときに、見せてくれたメタファー(比喩)がとても秀逸だったので、思わず笑ってしまいまして。

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ちなみに、こういった高次元とのやりとりによる思索や分析というのは、決まった時間ではなく、日常色んな場面で並行して起こってきます。とくに、中級陰陽師の天文道を習得してからは、このやりとりはかなり太く濃くなりました。

我が家では午前中は私が家事を担当し、午後以降は家内が担当するので、朝は7人家族分の衣服を二台の洗濯機で回し、干し、二台のルンバを使って掃除し、娘を保育園へ送り、他にもゴミ出しや銀行記帳などを、一気に行います。

朝の食事は各自で取るのでいちいち準備はしませんが、末娘だけはまだそんなわけにもいかず、パンを焼いたりスープを作ったりもします。

そんなわけで、午前中は殆ど家事で終わってしまいます。

ですが、だいたいそういうクソ急がしい時に(失礼)限って、頭のなかにいろんな情報がバンバン降りてくるのです。とくに洗濯物を干している時とか、炊事をしている時とかは、手を動かしながら頭の中では、まったく別のことができるみたいです。

そういうモードに入ると、このブログに書いているような、私の質問と高次元からの答とが問答のように頭のなかで展開してきます。

やってることと、考えていることのギャップがすごすぎますが、ときどき「なるほど!」とか「ぶほっ」と笑ったりとか、外から見たらドン引き必須だと思いますが(笑)、実にこれが刺激的なのです。

そういう高次元マスターとのやりとりを、ほぼ毎日のようにやっているので、自分の中の様々な問題はどんどん整理され、ファイリングされて自分の中に収められており、結構膨大なものになってきています。もっとも、問題もまた次々出てくるので、この問答は延々と続いていくわけですが。

その多くはなかなか、三次元の文字に入りきらない内容の情報が多く、それを盛り付ける器としての文体を作り上げるのに、かなり難儀しました。一時は対話形式で書いたりもしましたが、それもまた無責任な書き方になるので、なんとか統合して書くように今はしています。

とはいえ、まだそうとうにギリギリで、不完全感が満載です。

高次元からの情報はどうしてもエネルギーレベルが振り切っているので、変電所みたいに三次元レベルまで周波数を落として、グラウンディングさせるのは、けっこうたいへんです。

文字通り「上から目線」な文体になってしまうので、目線を落とそうとするのですが、エゴのインフレを常に監視しながら書くので精一杯です(見返すと、これも不十分ですね)。

エゴのインフレとは、ぶっちゃけていえば、高次元の意識を、自分の意識とごちゃまぜにし、慢心取り違えを起こしてしまう状態のことです。

三次元の自分までもが高次の存在になったと錯覚してしまうことです。これに完全に支配されると、「自分だけが特別な存在なのだ!」と思い込む、妄想性パーソナリティ障害ということになってしまいます。

「慢心取り違え」を戒め「覚者こそ普通人」であることを強調した岡田自観さえ、晩年は教祖性妄想的な行動(自分を神として拝ませるなど)をやってしまったくらいですから、これはそうとうに気をつけねばなりません。

確かに、高次元と交流することで、飛躍的に次元が上がり、得るものは大きいですが、そのぶんリスクもあるということです。

なので、家事というもっともグラウンディングしやすい時間帯を選んで、メッセージが来るのもそういう理由があるのかもしれません。

これまでのブログを読んでもらってもわかるように、常に自分の体験を交えて書いているのは、情報をなんとかしてグラウンディングさせるためなのですが、文体的にはまだまだ精進が必要です。

先輩諸氏から見れば、ツッコミどころ満載だと思いますが、とはいえ黙っていても進歩しないので、これはもう書き続けて習得していくしかないということで、暖かい目で見ていただければと願っています。

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前置きはこのくらいで、今朝来たメタファーというのは、「才能」について考察していた時です。

私に対する説明で、よく使われるのがITを使ったメタファーなのですが、今回もそれでした。

この現実世界では、二種類の人がいると思われています。

「天才」と「凡人」です。これは私にとっては、本当に嫌な言葉です。この世界で成功している人は一握りの天才、多くの人はただの凡人であって、高望みをしても夢など叶わない。だから身の程をわきまえて、高望みをせずに生きていきましょう。そんな、不文律がこの世界にはありますね。

私の好きなの自動車マンガでイニシャルDという作品があります。その主人公は、父親の策略で、知らない間に天才的なドライビングテクニックを身につけていました。豆腐屋の仕事を無理やり手伝わされ、毎日峠をかっとばして配達する中で、すさまじいテクニックを身につけてしまっていたのです。でも、本人にはその自覚がまったくありません。

ところが、峠を攻める数多くのドライバーたちと絡みだすなかで、彼がすさまじい天才ドライバーだということがわかってきます。覚醒した彼は、非力な古い車で、新型のチューニングカーを次々打ち破っていく。そんな、痛快なマンガなのですが、非常に気になる台詞があります。

登場人物たちがしばしば口にする「あいつは天才、おれたちは凡人」という言葉です。

「一部の限られた天才」だけが主役と戦え、「凡人たち」は周りで応援することしかできません。主人公の二人目の彼女は、天才ゴルフプレイヤーなのですがここでも「天才同士しか分かり合えないことってあるよな。俺たち凡人には理解できない」と、まるで勝者と敗者みたいな線が引かれるのです。

これを読んでいると、ときどき身につまされるような思いがしたものです。自分も、かつて作家を目指して、懸命に努力をしましたが、結局才能がなくて、諦めざるを得ませんでした。才能がない、天才ではない、自分はただの凡人にすぎない。それを受け入れるしかないという体験は、多くの人がしていると思いますが、なかなかつらいものがあります。

結局、自分には独創性もなく、才能もないのであれば、自分のことを特別に好きになってくれる人もいないだろう。自分だけにしかできない、情熱的に打ち込める仕事なんてのもないのだろう。成功して豊かに幸せになんてとてもなれないだろう。妥協して平凡な人生で満足するしかないのだろう。

そんな、諦観、敗北感みたいなものを受け入れざるを得なくなります。最初からこんな気分が蔓延していては、ニートやフリーターが増えるのも当然です。

これはとくに、男性にとってはキツイことです。幼いころは、プロ野球選手になりたいとか、サッカー選手になりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか、いろんな夢や希望に胸膨らませますが、ほとんどの男子は、中高時代か大学時代の何処かで自分の無力に打ちのめされ、凡人である自分を実感させられ、人生の多くを諦めねばならない瞬間を経験します。

それは甲子園とよく似ています。優勝校は1校、あとはすべて敗者なのです。

一部の限られた人だけが才能に恵まれ、多くの人が才能のない凡人とみなされる。これはどう考えても、理不尽で不平等です。あまりに自由がなく、愛のない有り様です。

こんなの間違っている、と私は思いました。

そういうところは不思議なのですが、ぜったいおかしい。なにかそこには、間違っている部分がある。真実が隠されている、と感じたのですね。

その長年の疑問に対する答えは、「iTunes Matchと同じ」でした。

わけわかりませんよね? 私は思わず笑ってしまったのですけど。

続きます。

©Muneo.Oishi 2015

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