メンターとマスター

Mentor Forces Telemachus to Abandon Eucharis, by Tito Angelini

こんにちは、喜龍一真です。

では、メンターとはどのような存在なのでしょうか。辞書で調べると次のように解説されています。

“優れた指導者。助言者。恩師。顧問。信頼のおける相談相手。ギリシャ神話で、オデュッセウスがトロイア戦争に出陣するとき、自分の子供テレマコスを託したすぐれた指導者の名前メントール(Mentōr)から”

“古代ギリシャ時代の有名な叙事詩「オデュッセイア」の登場人物である「メントール(Mentor)」が語源とされている。メントールは、オデュッセウス王のかつての親友であり、王の息子テレマコスの教育を任され、王が遠征している間、息子の良き支援者、指導者、理解者となり見事にテレマコスに帝王学を身につけさせた”

とあります。

この解説だけでは「マスター」との違いがいまいちよくわかりませんが、日本人はもともと先生との関係を、師弟関係=縦の関係とみなす傾向があります。封建社会の名残なのか、師弟関係を上下関係で捉えることに慣れています。

先日、私が宗教の中で感じていた師(マスター)に対するお仕えの姿勢を再度引用します。

・まずは師を畏れ、敬う。
・弟子は常に師のもとに赴き指導を受ける。
・師は常に上座に、弟子は常に下座に座る。
・何事も自分で判断せず、師の判断を仰ぐ。
・師に違和感があっても、それは自分の未熟のせいであり、すべて受け入れる。
・師の言葉にノーは厳禁。逆らってはならない。
・師に指導を受けたら、何事も素直に実行する。
・師の指導を受けたら、何も言われなくてもお礼(お金)を出す。
・他の師から指導を受けてはならない。

これは極端な事例かもしれませんが、たとえば体育会系の部活動における先輩後輩の、過剰に封建的なあり様などをみていると、あながちそうとも言えないのではないでしょうか。

しかしメンターは、上下関係ではありません。水平の人間関係の中で起こる助言者です。これは、なかなか日本人には馴染みのない関係性で、実際メンターはメンターとして接しているのに、教えてもらう側はマスターとして接し、上下関係を持ち込んでしまうのをよく見かけます。

わかり易い例では、先生に一切意見を言わないとか、明らかに問題があっても目をつぶるとか、頼みは一切断らないとか、過度に理想化して、人格的な欠点などにいちいち失望するなどがこれにあたります。

そもそも、メンターとはギリシア神話の中にもあったように、友人関係をベースとしています。

優れた親友の息子を教育するわけですから、そこにはいわゆる師弟関係のような上下関係はないわけです。メンターとは、あくまで相手の意思や思いを尊重しつつ、そのために必要な知識を伝えますが、それを採用するかどうかはあくまで、生徒の自由な選択に委ねられるのです。

中学時代に読んだ「次郎物語」という小説の中で、学生時代の次郎の良き助言者として、朝倉先生という人が出てきましたが、この人も今から思えばまさに理想化されたメンターでした。アーシュラ・K・ルグインのファンタジー「ゲド戦記ー最果ての島へ」の中で、王子アレンに対する老賢者ゲドの接し方も、マスターではなくメンターのそれでした。

映画スターウォーズでは、ルークのジェダイマスターとして、オビ=ワンやヨーダが出てきますが、ルークは反抗してばかりで、ヨーダを困らせます。ところが、死んでしまうとオビ=ワンもヨーダもマスターではなくメンターとしてルークに接するようになります。

このような横の関係は一見すると、生徒を尊重する、リベラルな関係性のように見えますが、厳しい面もあります。

メンターは生徒の成長に全面的な責任は負いません。最終的には、生徒次第ということであり、メンターはそれを補完する存在でしかないのです。メンターは、あくまで生徒の求める智慧を教えてくれる存在でしかなく、最終的な責任は全て生徒自身で負わなければなりません。

これに対しマスターは、弟子に全面的な帰依を求めますが、そのぶん依存を許すところがあります。

師として引き受けた以上は、なんとしても弟子を成長させる責任を負わなければなりません。弟子も、日頃師に従っている分、自分の面倒を最後まで見てもらえると思っていますし、仮に未熟で失敗を犯してもフォローしてもらえます。

そういう意味では、一見厳しいようで、甘い仕組みでもあるわけです。

本田健の著作や講演に接していると、彼にはいったい何人のメンターがいるのかというくらい、様々な分野にメンターを持っています。人種、性別、年齢など、多岐にわたる無数のメンターから、彼は教えを受けているのです。

最初は、このへんのことが理解できずに戸惑ったものです。マスターは基本的に一人です。浮気はできません。だから、無数の師がいる、と聞いたときには、最初すごい違和感がありました。そんなにたくさんの師がいたら、矛盾した教えとかがあった場合、どうすればいいんだろうと思ってしまったのです。

本田健はこのような質問に対し「メンターとは、自分が学びたいという領域だけに絞って、助言や智慧を学べばいいのです。メンター全般を受け入れる必要などありません。例えば恋愛関係のメンターであれば、恋愛の助言は学びますが、それ以外の部分は適当に聞き流せばいいのです。変わったメンターもたくさんいますから」といったような答えをくれました。

いかにマスターとは異なる人間関係であるか、お分かりいただけるかと思います。

メンターとの接し方を、さきほどのマスターとの関係と対比してみると、以下のようになるでしょう。

・メンターは友人であり、対等である。
・メンターは老人から子どもまでだれでもなりうる。
・メンターは隠れていることが多く、真剣に求めないかぎり教えてもらえない。
・メンターの助言はあくまで助言。それを採択するのは自分である。
・メンターとて普通の人。欠点はあって当然である。
・メンターの意見に納得いかなければ、納得いくまで質問する。質問力こそ成長の源である。
・メンターに意見を聞いても、納得いかなければ正反対でも構わない。自己責任である。
・メンターは必要なら金額や条件を提示する。嫌なら断ればいい。無料で教えてくれることも多い。
・何人メンターがいても構わない。

これは、まさに「マスター」との接し方とは真逆の考え方でした。

もともと日本でも紹介はされていたのでしょうが、本田健ほど頻繁に「メンター」という言葉を使った人はいません。それどころか、優れたメンターと出会えるかどうかが成功の秘訣、とさえ語ったことから、彼にメンターになってもらおうと、アメリカ住まいでなかなか姿を見せない人であるにもかかわらず、多くの人が彼のもとに集うのでしょう。

私にとっての最初のメンターは確かに、本田健だったと言えます。しかし、それは直接ではなく、書籍や教材などを通じてのメンターでした。それで十二分だったと思っています。あくまでメンターとは「助言を与え、補完する」だけであり、実際に人生に導入するかどうかは、全部自分自身の責任なのですから。

メンターをマスターと思って依存しようとしても、メンターはするりとそこから逃げ出してしまうでしょう。メンターの教えだけで成功が保証されるわけではないのです。

しかし、その自由さは、素晴らしいものだと思いました。自分の抱いたさまざまな問題に対し、自分に一番ふさわしい答えのヒントを与えてくれる出会いを求め、生きていく。師との関係のような自己犠牲を伴わない、対等な友人関係の中での愛と自由を尊重したシェアリング。

そんなメンターと出会う人生を歩みたい、と私は強く思ったのでした。

この縦と横の違いは、そのまま宗教とスピリチュアルの違いにもつながっていきます。

善悪正邪を立てわける宗教を縦とするなら、愛と自由を尊重するスピリチュアルは横といもいえるでしょう。さらにそれは、正義の盾をかざす黒の道と、自由の旗を振る白の道、2つの相反する道へとつながる道筋でもあるのです。

それではまた。

©Muneo.Oishi 2015

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