こんにちは、喜龍一真です。
前回、私は上下関係という意味での師弟関係のまっただ中で、
板挟みのようになりながら苦しんでいたと書きました。
もう少し、その辺の事情を詳細に説明してみます。
当時、私は多くの信者を預かる師の立場にあり、
同時に、父や祖父といった身内を、
師として仰がねばならない弟子の立場でもありました。
出世して上の立場になった父の代わりの師として、
息子の私が、ある布教所の長としてあてがわれたわけです。
当然彼らはみな、父の弟子ですから、
父に対しては絶対的な畏敬があるわけです。
しかし、私はあくまで息子です。
子供の頃から私を知っていますから、
実際は師弟関係というより、
逆転した親子関係みたいになってしまいます。
それでも、血のつながりの中に、父の面影を見たり、
父の姿を間接的に見ることで、
形だけのものではありますが、
弟子のようなふりをしてくれるわけです。
これでは、師弟関係など形骸でしかありません。
畏敬という本質を欠いた師弟関係は、
互いを空虚にするだけです。
弟子たちは、かつて師を仰いで情熱的に学び、
献身的に行動したかつての日々を
懐かしみ、やがてそれらを伝説化していきます。
「昔は良かった」症候群です。
そして、目の先の息子には常に物足りなさや失望を感じながら、
その心を隠して、上辺だけは畏敬の対象のように接するわけです。
形式だけはしっかりしていますから、それは難しいことではありません。
ボンクラ二世なら、これを本心からの畏敬と錯覚して、
自分は偉いと勘違いし、満足して生きていけるかもしれません。
しかし、普通の神経なら、彼らの果てしない失望と、
師に見捨てられたという根底の怒りみたいなものに、
気づかないわけにはいきません。
アントロポゾフィーの祖、ルドルフ・シュタイナーは
名著「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」
において、霊的成長と進化において、
欠くべからざる霊的基調は「畏敬」であると書いています。
神への畏敬、師への畏敬、叡智への畏敬。
それらをも失ってしまったら、
霊的な覚醒はおろか、
信仰心をもって生きることさえ困難です。
ただ組織形態を維持するために、多くの信徒に形だけの畏敬を強い、
霊的な成長どころか、信仰心さえ失わざるをえない危機的状況を、
変革することもせず、先達の資産の上にあぐらをかきつづける二世たちの姿は
少なくとも霊的成長を求める私にとっての畏敬の対象には成り得ませんでした。
そのような内的虚偽を隠して、形式的な師弟関係のまま、
日々をただ安穏と過ごすだけなら、
そのまま何も変わらずにいる、というのも選択の一つでしょう。
しかし、私は心も体も壊してしまうほど苦しんでしまいました。
そこから抜け出すのは簡単なことではありませんでしたが、
私の高次元存在は、そのような虚偽を許すほど、
寛容ではありませんでした。
皮肉なことに、
教祖・岡田自観(信徒は明主様と呼んでいますが)は、
「誠」という論文の中で、
「宗教も学問も芸術も、中心に誠がなければそれは形骸でしかない」
と語っています。
まさにその通りの状況だったわけです。
これは私の属していた宗教にかぎらず、
多くの宗教が抱えている負の側面といえます。
畏敬というものを、個人の自由な愛の横溢としてではなく、
教義の集積、祭壇と儀礼という装置、
伝説や迷信を利用した恐れ、すなわち畏怖による支配によって
畏敬の態度を個人に強いる仕組みのことです。
畏敬と畏怖は、一見同じように見えて、
実は全く正反対のエネルギーを持つ感情なのです。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中に、
「大審問官」という有名な章があります。
唯物論者のイワンと敬虔なキリスト教徒のアリョーシャが、
酒場で話をするシーンですが、
そこでイワンが語る短編劇に登場する、
大審問官(異教徒を審問し火炙りにする役)が、
復活したイエスを捕らえてこういうのです。
「なぜおまえはわしらの邪魔をしに来たのだ?」と。
様々な解釈がありますが、
自由な愛の発露たる畏敬の対象(イエス・キリスト)は、
畏怖による支配(カトリック教会)を邪魔する存在でしかないと、
登場人物に言わせていると捉えることもできます。
高次元から霊的覚醒を求められながら、
畏敬の失われた形骸化された状況下で、
孤独に苦しんでいた時、
入り込んできた「メンター」という概念。
それは、意外にも「幸せな小金持ち」シリーズや
「ユダヤ人大富豪の教え」で有名な、
本田健の著作の中にありました。
続きます。