師弟関係のポジティブとネガティブ

D'une danse des mains et du cœur dans la lumière - 13

こんにちは、喜龍一真です。

今日は、宗教組織などの師弟関係について考察してみたいと思います。

以前、私が専従していた宗教団体では、自分の先生への「お仕え」がとても重要視されていました。

宗教とは、当然ながら神を信仰することが主目的です。しかしながら、神は祭壇の向こう側にあって、しかも眼には見えない存在です。あまりにかけ離れすぎていますし、対話もできませんので、畏敬の念を態度として現すことができません。

祭典や祈りはどうしても形式的なものになってしまいます。教祖も同様で、生きていれば直接的な畏敬の対象となりえますが、亡くなってしまえば神と同様に、概念化していってしまいます。

そこで、神や亡くなった教祖に対するように、自分の直接的な師匠、先生を「神」のように畏敬の対象としてお仕えすることで、代償するわけです。

では具体的に、お仕えとはどのような態度で師匠と接することかというと、

・まずは師を畏れ、敬う。
・弟子は常に師のもとに赴き指導を受ける。
・師は常に上座に、弟子は常に下座に座る。
・何事も自分で判断せず、師の判断を仰ぐ。
・師に違和感があっても、それは自分の未熟のせいであり、すべて受け入れる。
・師の言葉にノーは厳禁。逆らってはならない。
・師に指導を受けたら、何事も素直に実行する。
・師の指導を受けたら、何も言われなくてもお礼(お金)を出す。
・他の師から指導を受けてはならない。

大体、こんなかんじだったかと思います。

このように、一度師弟となったら、お仕えという意味では絶対的な関係となるわけですから、慎重な判断が必要なはずなのですが、実際は「自分が所属した組織の長」=「師匠」と自動的に認定されてしまいます。

宗教組織に入信するのは、2つのパターンがあります。一世と二世以下です。

いわゆる一世の人たちは、自分に何らかの問題(ほとんどが病気)を宗教の神通力で解決してもらった、治してもらった、奇蹟的に救われたなどの経験を通じて、自分から志願して入信し、さらには専従して、師のもとに集って宗教活動を行います。

なので、師に対する信頼関係がものすごく厚いのが一世です。私の父親や祖父はこれでした。

それこそ、みな命の恩人レベルですから、師のためなら自分は死んでも構わないくらいの勢いで布教をします。なので、ものすごい奇蹟とかがぼんぼん起こったりして、さらにそれでまた多くの人が入信してくるという感じで、爆発的に発展していったわけです。そういう時期の師弟関係であれば、上記のようなお仕えはそれこそ自然というか、あたりまえの事だったわけです。

ところが、そういう一世の伝説的な発展期が終わると、二世の時代に入ってきます。二世とは、一世の子どもたちということです。子どもたちは生まれながらにして、信者として育つので、信仰そのものに違和感はないのですが、救われた体験とか、感動とかはありません。

だから、二世に命がけで信仰するような人はほとんどいないわけです。私はこちらに当たります。

宗教組織も時を経るに従い成熟してきます。成熟とはどういうことかというと、発展が止まり、組織の維持が主目的になってきます。一世の華々しい活躍を伝説として残した布教師たちも、寄る年波には勝てず、引退したり、亡くなったりします。そこで、あとを継ぐのはなぜか弟子ではなく、多くの場合血縁関係で選ばれます。

つまり、二世(つまり息子など子ども)が新たな師として組織の長になったりするわけです。

当然、師と弟子の間に直接的な心のつながりはありませんが、師匠の「子ども」であるなら、師の遺伝子や面影がありますから、師への思いを重ねていけるという意味で、上記のような「お仕え」関係を維持できるわけです。

組織としては、よほど力のある人でなければ、弟子よりも二世のほうが安定するわけです。

実際、弟子が師匠から引き継ぐと、どうしても弟子どうしがぶつかり合い、結果組織が分裂してしまうことがよくありました。そんなわけで、多少二世がボンクラであっても(失礼)、二世であるだけでその組織は安定するため、必然的に二世の師匠というのがどんどん増えていくことになります。

しかし、そこにはもともとあったような、畏敬とか敬愛とかはなく、お仕えすら徐々に形骸化していきます。すると、上のようなお仕えというのは、非常にまずいことになってきます。

大した努力をしなくても、二世は師になれます。すると弟子たちから、上記のような手厚いお仕えを受けることなりますから、自分は偉いと勘違いすることは簡単です。

私自身も、教義と自分の経験との大きな乖離と矛盾にくわえ、このような形骸化された組織の有り様に辟易したのと、なんの努力もなくても、二世というだけで勝手に立場が上がっていくことに、恐怖を感じて専従を辞めたわけです。

さて、このような師弟関係のあり方は、宗教だけでなく、さまざまな徒弟制度の中にみることができます。「道」とつくもの、例えば茶道、華道、武道や、歌舞伎や能、狂言など、古い伝統的な文化芸能の世界、また寿司などの料理や大工、工芸など職人の世界でもそうです。相撲などもそうですね。

「丁稚奉公」という言葉がありますが、それこそ弟子入りということは、人生全部捨てて師にお仕えすることから徹底的に仕込まれます。一度師についたら、浮気など決して許されません。生涯、師は一人きりです。そうやって、生活のお世話から、礼儀作法から、何から何まで師に尽くして、はじめて技術が身につき、立派になれるという教育システムが、古来から日本にはあったわけです。

しかし、これは当然ネガティブな側面もあります。それは、自由を大きく阻害するものだということです。自分の意思で師を選んだならともかく、他者の都合で師が勝手に決められ、畏敬も敬愛も感じない形だけの師に対し、身を捨ててお仕えすることが求められるというのは、不自由・理不尽以外の何者でもありません。

私自身、このような伝統的な師弟関係を当然とする環境の中、負の側面に直面しながらたいへん苦しんでいた時、これとは真逆の価値観に接して、目から鱗が落ちるような思いをしました。

それは「メンター」という言葉でした。

伝統的な師弟関係の師が「マスター」であるなら、私にとって真逆の師弟関係を象徴する言葉が「メンター」だったわけです。

長くなったので、続きは次回書きますね。
それではまた。

©Muneo.Oishi 2015

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