現代住宅と「この世はでっかい宝島」

after the deluge

こんにちは、喜龍一真です。

私は1月生まれで、本来寒さは得意のはずなのですが、実際はとっても寒がりで、日本の中では比較的温暖な地方に住んでいるにもかかわらず、冬は嫌いです。

私の住んでいる家は、昭和年代に建てられた軽量鉄骨の家で、築20年を超える借家です。中はリフォームしたこともあって、見た目はきれいなのですが、実は断熱も気密もほとんどありません。サッシもパッキンなどが抜け落ちたり、劣化しており、冬はあちこちから隙間風が入ってきます。

以前住んでいた家も、築100年以上の古民家で、しかも山の麓だったので、今以上に隙間風がひどく、いつもファンヒーターをフル回転させて冬をしのいでいました。

最近、モデルハウスなどをよく見学に行くのですが、最近の住宅はみなエコ住宅仕様で、断熱も気密も格段に性能が上がっており、中の暖かさや爽やかさが段違いになってきています。シックハウス症候群についても、住宅メーカーも真剣に取り組み始めたようで、ホルムアルデヒド未使用とか、24時間換気とか、実際の性能はわかりませんが、スペック的には気を使っているようです。

スーモなんかをチラチラ眺めていると、世の中にはこんなにたくさんの住宅メーカーや工務店があるのだなと、びっくりさせられます。周囲を見ても、大手の住宅メーカーの契約条件付き分譲地などがあちこちにあって、景気は微妙な段階であるにもかかわらず、着々と売れていきます。

大手住宅メーカーの軽量鉄骨造りから、ローコスト住宅の軸組工法住宅、さらには中堅ハウスメーカーや工務店の輸入住宅や健康住宅、デザイン住宅、天然木住宅などなど、いっぱいありすぎて、これで需給のバランスがちゃんと取れるのか、心配になってくるくらい、日本の住宅はバラエティ豊かです。

ロンドンに行くと、町並みのどれもがレンガ造り、石造りで、基本的に工法は皆同じように見えます。湖畔の町は湖畔の町で、いわゆるプロバンス風の漆喰とオレンジ瓦で皆統一感がありますが、結局それも同じ工法だからでしょう。

ところが日本は、実にユニーク。大手住宅メーカーの分譲地は似たような家ばかりですが、近所の新興住宅地とかは、さまざまな工法が入り混じり、さまざまなデザインの家があります。純和風、和モダン、シンプルモダン、古民家調、プロバンス風、レンガ風、ログハウスなどなど、散歩しながらいつも感心して眺めています。

カタログで見ると、他社との比較で「うちはこんなにスゴイ!」と謳われているのですが、今はどこも同じようにベタ基礎だし、複層ガラスだし、Q値もC値もそこそこだし、坪単価は適当だし、実際のところは現場に行ってみて、確かめてみないと何もわかりません。

それに漫然と見に行っても、モデルハウスはオプションてんこ盛りで、坪単価無視で建てたシロモノですから、見た目に騙されたくなければ、目をつぶって体で感じた部分くらいしか、実際のところ参考にはなりません。

視覚(見た目)でもなく、聴覚(セールストーク)でもない部分で、自分にとっての最善を見極めていく時、空気のよどみとか、臭いとか、圧迫感とか、なんだかわからないけど、気持ちいいとか、気持よくないとか、そういった感覚的な部分と直感的な部分が、とても大切な指標になってきます。

しかし我々は、住宅にかぎらず、車にしても家具にしても家電にしても、値段とかスペック、デザインといった、目で見える指標で判断することに依拠してしまっているので、体感や直感などはどうしても軽視しがちです。

スーパーで食材を選ぶときでさえ、直感的な「これがいい!」という感性とか、匂いや手触りなどではなく、値段や見た目で判断してしまいます。「ほんとはこっちのほうがいいけど、こっちのほうが2割引きだしね…」なんて、いつも迷ってしまいます。

しかし、よくよく考えれば、たかだか20円や30円の違いなら、質が良くて美味しいに決まっている方を選べばいいわけです。食べ物は、私達の体を作り、命を支えてくれるもの。そこにお金を惜しむ必要は、本来ないわけです。

でも、そこで安い方を買ってしまうのは、自分の中の判断基準を、視覚的でわかりやすい指標(数字)に依拠してしまっているからでしょう。嗅覚、触覚、さらに肉体的な感覚を超えた直感。それをフルに用いてスーパーで買い物をしていくと、それだけでもなかなかよい感性のトレーニングになります。

スーパーでさえそうなのですから、大きな金額のかかる買い物をする時、ものすごい沢山の選択肢の中から選ばなくてはならない時、判断基準を視覚と聴覚に頼り過ぎると、あとで後悔したり、失敗につながる選択をしてしまいかねません。

なぜなら、我々は自身の幸福を感じるのは、視覚と聴覚だけでなく、金額の多寡でもなく、すべての体感を総合して内的に受け取るものだからです。

他人の幸福と自分の幸福は同じではありません。ある人が美味しいというものを、別の人はまずいといいます。ある人は好きというものを、別の人は嫌いといいます。音楽も、本も、服も、食べ物も、家電も、スマホも、車も、家も、好みは多種多様です。

そして、どの人の印象も真実です。

自分にとっての幸福を追求するなら、目を閉じて、自分の感覚を研ぎ澄まし、限られた予算を最大に活かしながら、自分の満足の行く選択を妥協無くし続けるしかありません。

この三次元は、経験のための遊園地。でっかい宝島。

生まれて死ぬまでの間に、どれだけの経験ができるか。見たことのないもの、聞いたことのないもの、触れたことのないものに、飽くなき好奇心を持って触れていく時、人生はどんどん豊かになっていきます。

所有は目的ではなく、経験のためのツールにすぎません。お金のかからない経験は、まだまだこの世界に沢山残されています。

それではまた。

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