交通事故と死の選択

Morning skies (II)

こんにちは、喜龍一真です。

最近、大きな飛行機事故が連続しています。しかも原因が不可解だったり、あり得なかったり、理解に苦しむような事故ばかりですから、さすがに何が起こっているのだろうと考えこんでしまいます。

私自身、高所恐怖の人なので、飛行機はもちろん、観覧車とか、超高層ビルなど、高いところは基本的に苦手です。ジェットコースターは最初だけ我慢すれば、あとは瞬時に終わるので意外と平気なのですが、観覧車はとくに嫌なものです。

でも、本当に死にそうなくらい怖かったのは、長島スパーランドジャンボ流水プールのスライダーのてっぺんで行列待ちを食らった時です。あまりの高さと手すりの貧弱っぷりに、貧血起こしました。

まあ、これも過去生の因果だろうとは思うのですが、3000mの表銀座を縦走し、鎌尾根の鎖場を越えて槍ヶ岳のてっぺんを経験した今でも、高所恐怖は克服できず、いまは諦めて受け入れています。

そんな私なので、沢山の人が瞬時に亡くなってしまう飛行機事故は、何度ニュースを見ても痛ましく、酷く、身の毛のよだつ思いがします。犠牲者の方々の冥福をお祈りするばかりです。

先日は、近所の女性が玄関から外に出た途端、バイクにはねられて即死するという事件がありました。私達は、日常の生活の中で、ある日突然自分が死に直面するなどとは、考えもしません。でも、生死の境は、覚悟のあるなしにかかわらず、ある日突然やってくるのです。

私自身も、思いがけない死に直面した出来事がありました。病気の時はある程度死を覚悟していたのでまだいいのですが、なんの準備もなく、突然生死の境に向き合わされる瞬間というのがあったのです。それは車を運転していた時でした。

あれは、まだ結婚したばかりのときでした。

夜仕事が遅くなり、職場から帰ろうと車を運転し始めると、妻から携帯に電話がかかってきました。妻は「用があるので、急いで帰ってきて」と告げました。

通常なら、そうは言われてもとくに急ぎもしないのですが、何故かその日は焦っていて、アクセルを余分に踏み込んでいました。そしてさしかかったゆるい右カーブ。二車線の道路はゆるやかに曲がっていて、多くの車が速度を上げたまま突っ込んでいきます。

しかし、中央分離帯には高い植え込みがあって、対向車線が殆ど見えません。しかも、そのカーブの途中には信号のある交差点が挟まっていたのです。私はそのカーブに、いつも以上の速度で突っ込んでんでいくと、最悪のタイミングで信号が黄色に変わりました。

さらに悪いことに、対向車線には右折車が待っており、信号の変わり目のタイミングで、私の目の前を塞ぐように右折してきたのです。両車ともに植え込みで発見が遅れ、気づいた時には衝突は避けられない状態でした。

私は、その瞬間「あ、死んだ」と思いました。ただハンドルにしがみつくしかありませんでした。

交差点にはコンビニがあり、その向かいには気味の悪い溜池と、戦時中の被害を記念する石碑が立っていました。正面衝突した私と、私の車は、原型を留めない状態でその記念碑の中にもんどり打って突っ込み、爆発し、私は粉微塵になって死にました。

死んだ、はずでした。その一瞬で。

その刹那、私はこれらの光景をなぜか外から見ていました。

でも、次の瞬間、時間が逆回りします。そして、気が付くと、まるで正面衝突を通り抜けたみたいに、普通に走っている自分に気がついたのです。

「???」

バックミラーを振り返ると、目前を塞いだと思ったその車は、ギリギリのところで急ブレーキをかけ、危機一髪回避してくれていたのでした。でも、それはとてもおかしな話でした。あきらかに、車は私の目の前を塞いだのに、次の瞬間、車は後退していたのです。

んな、馬鹿なことがあるのだろうか。

でも、実際に自分は生きています。車は粉々にもならず、かすり傷ひとつありません。「ああ、これがいわゆる奇跡ってやつだな」と思いました。しかし、手の震えは止まらず、家に無事に帰り着いた後も、冷や汗が止まりませんでした。

今でもその道を通るときは、身構えてしまいます。

実際、この現場には、お地蔵様が祀られており、多くの人が命を落としていました。さすがに植え込みは危険とわかったらしく、その後上だけ刈り取られましたが、対処が遅すぎです。

この出来事はいったいなんだったのか。この出来事を思い出させてくれたのは、それから10年後に読んだ、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」の続編、「神へ帰る」を読んだ時のことでした。

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ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」は、知らない人はいないと思いますが、ニールの言う「神」(我々は高次元存在といいますが)との筆談チャネリング対話集です。ニールが神に質問すると、ペンがひとりでに走って、神の答えが綴られる。そのようにして書かれた膨大な対話集のことです。

この続編「神へ帰る」では、人間の最も知りたいと願いながら、知ることのできない「死」についての質問と回答が収められています。その中で、すべての人間は死に際して、その先を自由に選択できる、とあるのです。

つまり、「死」の門をくぐっていく過程で、そのまま宇宙へと戻っていくか、それともやめて戻るかを、必ず選択する、というのです。そして、殆どの人は、生から死へと向かって行く時、そのまま宇宙へと帰ることを選択するのだと。

我々は死を生理的に恐れますが、肉体を離れて魂となった時、宇宙に帰るという選択は、何よりの救いと癒やしなのです。だからほとんどの魂は、戻ってくることを選択しません。

しかし、どうしても果たさなければならない何かがあるときにかぎり、あえてこの不自由な三次元の世界に戻ることを選択するのです。

戻ることを選択すると、時間は一度巻き戻り、死の直前に引き戻されます。そして、そこから「やりなおし」になる、というのです。まるで、ドラクエの冒険の書みたいに。

私に起こった出来事は、まさにこれでした。

もちろん、この最後の選択の場面は、記憶には残っていません。しかし、ここでリプレイが起こっているのは間違いありません。なぜなら、時空が連続していないからです。

このことを知った時、私は少し安心しました。この世界にまだやり残しがあるのなら、戻ってくることができる。戻ってこないということは、宇宙に帰るという選択をし、癒やしの中に去っていった、救われたということを示唆しているのだと。

もちろん、それが真実なのかどうか、保障することはできません。だれもできないでしょう。でも、私は自分の体験から、おそらくそうなのだろうと、自分なりに納得をしました。同じような経験を、他にもいくつかしていますが、いずれも私は生きて戻ってきました。

いわゆるそれを奇跡、というのかもしれません。だとしたら、私はよほど、この世に未練があるのでしょう。成し遂げなければならない何かが、早くわかるとよいのですが。

もちろんだからといって、他者の死が痛く悲しいことに違いなどありません。ましてそれが事故や事件での死であれば、残された人たちの傷みはいかばかりか。もし自分が同じ立場だったら、その感情はどれほどのものか。日々のニュースを見るごとに、そんな思いの中に沈潜します。

それもまた、陰陽師の自分にできる大切な仕事の一つと思っています。

Appleの創業者である故スティーブ・ジョブズは「明日死んでも今の自分に後悔ないか」といつも鏡に向かって問いかけていたそうです。私も次に生と死の境界が目の前に訪れたときは、三次元に未練のないよう、精一杯生きたいものです。

それではまた。

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