愛とセックスの分離と統合:レイとアスカをモチーフに

Snow White and Prince Charming

大学時代に、理系の研究室に入っていた友人に、「セックスって何のためにするんだと思う?」と興味本位に尋ねたら「射精するため」とまるでテストのように答えが返ってきた。

本来最高のセックスとは、肉体の快楽をきっかけに、相手の全てを自分の中に取り込んでしまいたいくらいの情熱的な愛が爆発し、体の奥底から炸裂することである。しかし、多くの男子は排尿程度の表層的な快感をセックスだと思い込んでいる。

内向的男子にとって、性欲と愛は、水と油みたいなものだ。

旧エヴァンゲリオンを例にあげてみよう。シンジは、綾波レイとアスカ・ラングレーの二人の女子に関わるが、シンジはレイに愛は感じるが性欲を感じない。アスカに性欲は感じるが愛を感じない。

シンジはレイに母親の面影を投影し、自分を導く不思議な存在として魅かれながら、身体には一切反応しない。レイの裸をなんども見ているにもかかわらず、彼はもっぱらアスカばかりを自慰の対象に使う。

彼はアスカに対し、仲間以上の思いはない。憧れも尊敬も感じてはいない。むしろ、同情や哀れみ、嫌悪感すら感じているがいずれも愛ではない。ただ、身体が魅力的だというだけで、欲情していると本人も分かっている。だから、自慰のあとで深い罪悪感を感じる。

この分裂が、性欲を愛と隔て、セックスを罪なるものにしてしまう。自慰のあと、性欲を持つ自分は醜く、汚く、恥ずべき存在だと強く感じる。セックスはその延長線上にある。

一方、愛は家族愛、母性愛が唯一絶対のものとして強調され、母親の愛こそ純粋な愛だと感じる。愛はセックスではなく、セックスは愛ではない。愛は母であり乳房である。セックスは罪であり性器である。女性が上半身と下半身で分断される。

幸せになるために最も必要な愛が、もっとも罪なるものと同居しているのだ。

愛とセックスは光と闇であり、憧れと嫌悪であり、天使と娼婦であり、水と油である。それが一人の身体、存在に共存しているように感じられるのである。この最大の矛盾をどうやって統合していくのかが、内向的男子にとって最大の試練となってくる。このクリアが一筋縄ではないため、セックスレスや離婚どころか、女性と付き合うことのできない男子を増産させてしまうのである。

実物の女性に対する恐怖、不信はこのアンビバレントな自分自身の信念を投影した結果なのだが、それがリアルな女性そのものの本質だと信じこんでしまう。その点、二次元や遠い芸能人は最初からセックスの要素を排除できる。純粋な愛と、不純な性欲を別々に処理できるのである。だから、安心して愛することができるのだ。

その根底にあるのが、性欲への罪悪感である。この罪悪感は旧約聖書のアダムとイブの失楽園から、ありとあらゆる形で社会に織り込まれている。

キリスト教国でなくても、敗戦によりアメリカ文化に侵食された日本文化は、キリスト教思想をも深い部分で受け入れてしまっており、もともとの儒教思想に加えて、性に対する罪悪感は想像以上に根深い。表層的なフリーセックスが外向的男子に受け継がれたとすれば、その裏に潜んでいたキリスト教的禁欲主義が内向的男子に受け継がれたとも言える。

ディズニーが徹底的に表現した「結婚してハッピーエンド」というロマンティック・ラブ幻想はまさに禁欲的な道徳観そのものである。そこに性的な要素は全く見ることができない。これにコンプレックスと罪悪感が絡みあい、家庭教育で強く子供に影響を与えている。

性的なシーンがドラマで流れた瞬間、親にチャンネルを変えられた経験を持つものは、多かれ少なかれ性にネガティブな信念や定義を植え付けられているはずだ。

確かに、性欲は性欲のままでは単なる肉体的欲求に過ぎない。しかし、たとえ性欲と言えども食欲や睡眠欲と同じ、単なる生理的欲求である。それは罪でも何でもなく、中立的な行為のはずだ。ところが、性には他の欲求にはない「恥」の感情がついてまわる。

本来、恥の感情とは防衛機能の一つに過ぎない。弱点や急所をむやみに晒すのは危険だからこそ、恥の感情によって覆い隠し、防御しようとしているだけなのだ。しかし、この恥の感情をポジティブに評価できず、良くないこととして捉えてしまう。性に関わる全てが、恥ずべきことだと捉えてしまう。

それは肉体的な快楽をうまく受け入れることができないために生じている。自然界や神が、人間を喜ばせるために肉体に備えた機能を、信じることができないのだ。苦痛を与える器官は信じられても、快楽を与える器官は信じられないのである。

もともと性器も性欲も、悪でもなければ善でもなく、至って中立的な機能である。ネガティブに定義付けるのも、ポジティブに再評価するのも、人間ひとりひとりの主観に過ぎないのだ。それを社会や文化的な価値観で勝手にデフォルト化されているだけなのだ。

愛は家族愛や友愛、人類愛まで広がるものだが、そこだけを強調しすぎて、異性の愛は良くないものだと捉えがちである。しかし異性愛は性欲と掛け合わされることで、他の愛では味わえない情熱を備え、特別な愛になりうるのだ。それは単に生命を受胎させるだけでなく、創造エネルギーそのものを生み出すのである。

性欲に関わる罪悪感を解放すると同時に、蒸留され純化されすぎた愛を地上に引き戻す。そして愛と性欲がひとつになり、愛する人と体ごと融け合う最高の幸福を味わうことができるようになる。男女を単位に地上に大きな愛のエネルギーの柱が立つ。その二人が解き放つエネルギーは周囲を大きく変える。

愛は心配、愛は恐れ、愛は不安、愛は罪。そのネガティブな定義を、愛は信頼という強力にポジティブな定義へと変えることができる。それは、さまざまな問題を根底から変化させる、大きな力になりうるのである。

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