ヤマアラシのジレンマのメカニズム:投影かチャネルか

masks #8617

先日のワークショップで、カップル二人に「現在の問題点」をあげてもらったところ、同じ問題を挙げた。それは「人間関係が難しい」ということだった。「人と深く関わることが不安。どこまで自分を出したらいいのか、どこで自分を押さえたらいいのか、その線引きがわからない」と。

あるいはこうも言った。「自分が何気なく言った言葉で、思いがけず人が傷ついてしまう。でも、それを意識しすぎると、何も話せなくなってしまう。どうやったら人を傷つけずに、話をしたらいいのかわからないので、悩んでしまう」と。20代の若いふたりも、こんな悩みを抱えていた。

人間関係、コミュニケーションというのはとても難しいし、どんどん難しくなってきていると感じる。60以上の年配者はその点気楽だ。自我が強いので、それほど簡単には傷つかない。だから、少々意地悪なことを行っても冗談で済む。50から下になればなるほど、難しくなっていく。

表面的にはみんな気持ちよく接してはくれるが、決してある一線から底は見せてくれはしない。その奥へ足を踏み込もうとした瞬間、思いもかけず強い拒絶にあったりする。おだやかな表情なのに、瞳の中だけ凍りついた冷たい光がよぎる。そのサインに気づかないと、突然連絡が絶たれる。回復できない。

これは僕自身、されたこともあるし、やったこともあるからわかる。自分がどう見られているかと、実際に人がみている姿が、乖離すればするほど苦しくなってくるのだ。必死で演じている姿を不自然と見切り、本音を見せろと一歩踏み込まれた瞬間、激しい拒絶行動に出てしまう。防御反応みたいに。

心理学の言葉で、「投影」という言葉がある。これは、自分の中のイメージを他人に投影することをいう。自分勝手に他人を理想化したり、自分勝手に定義付けした人物像を、相手の真の姿だと思い込んでしまうのである。

好きになった女の子が、トイレに行ったり、セックスしたりしているのが信じられず、清純な美少女だと思い込むのも理想化の投影だ。逆にアイドルや俳優、芸能人はプロとして現実の人物とは異なった人物像を意識的に演じ、人々の中に別の人格を本物のように創り上げ、自分自身に投影させる。

芸能人に限らず、肩書きのある人は、だいだい肩書きをペルソナにして虚像を作り出す。虚像と言っても、全部が全部虚像なのはホストくらいなもので、ほとんどは一部が虚像である。それは闇や影の部分を覆い隠し、光だけしかないように見せるタイプの虚像である。

ところが家族は、家での振る舞いを通して、闇や影に類する人格を散見するので、外部で見せているペルソナを見ると「外ヅラと内ヅラが違う」と非難することになる。しかし、その程度の非難はさほど問題にはならない。なぜなら、意識的に使い分けているからだ。問題は、無意識に使っている場合だ。

自分がなにものかがわからない。自分はどんな人間なのか、自分で分からない。そんな人は、自分を定義付けできないので、社会的な規範や親の期待などで自分を理想化する。闇や影を認めずに、理想化した虚像を実像と思い込もうとする。それが嘘だと分かってはいるが、真の自分が空洞だとバレるのは怖い。

そこまで極端ではなくとも、一部の自分の中にある定義や信念の中に、ネガティブなものがあっても、それを認めようとせず、無視したり目をそらせたり、諦めたりしているとき、そんな虚無的な部分を覆い隠し、さも健全で普通であるという虚像を創りだしてしまうのは、よくあることなのである。

例えば、本当は理想の女性と心も体も融け合うほど愛しあうことを求めているのに、愛は自己犠牲だという定義を受け入れて結婚した結果、夫が妻の先生か医師のようになってしまい、そこでたまった欲求不満を不倫や風俗で埋め合わせているにもかかわらず、世間的にはいたって理想的な夫と見せる。

グレート・ギャツビーのトム・ブキャナンみたいな人物であるが、実際に僕はそういう人に何人もあった。経営者や教育者、宗教者にもいた。周囲の多くは、その模範的で立派な姿が虚像とは思わず、実像だと思って好意的に投影する。ところが、より親密になればなるほど、奇妙な違和感が苦になる。

彼の実像が見えてくるにつれ、虚像が虚像だと分かってくる。しかし、そこでさらに深くコミットしていくと、さらにその奥に、実像でもなく虚像でもない、真の像が見えてくる時がある。彼が本当に求めているのは、浮気や風俗での一時的な快楽ではなく、親密な愛の一体感なのだということに。

でも、彼はそれを最初から不可能だと信じている。そんな関係は絵空事で、ありえっこないと思い込む。愛を信頼できない。愛は自分を犠牲にして、初めて成り立つものであり、快楽は愛とは異なる罪悪だと定義して、風俗や不倫をわざわざ犯し、妻を欺く。愛に対する深い諦めと不信がある。

しかし、本当は信じたいと願っているのだ。絵空事だと思い込んでいることが、もし現実になればどんなにいいだろうと願っている姿が見える。それが違和感の根源なのだ。このとき、人は相手に、虚像でもなく実像でもない、ハイアーセルフを見ている。投影ではなく、チャネルしているのだ。

人と人が、浅く付き合う限り、実像と虚像の狭間で騙し騙されしながらも、問題なく生きていくことができる。しかし、今の若者は、根源的により深く、親密に相手と付き合いたいと願っているのだ。なのに、自分の実像が全くつかめないことに、戸惑っている。だから、虚像をまとい、空洞を覆い隠す。

人と深く接すれば接するほど、ハイアーセルフもロアーセルフにもチャネルすることになる。高い人格と低い人格が、葛藤しているさまが見え隠れする。その不調和、不協和音が、関わるものを苦しくさせる。葛藤があからさまになることを恐れて覆い隠す。暴かれれば失望、幻滅、そして拒絶される。

セルフ(自我)・ハイヤーセルフ・ロアーセルフの三位一体。その形成の中に、滑らかな人格と安定感が生まれる。自信のネガティブな信念を開放し、ポジティブな信念へ更新する。そしてその信念体系に基づいて行動し、その信念と行動のハーモニーが実像と虚像の狭間を埋める。

我々から新しい魂は、すでにそれほど敏感な受信機を装備している。若者は、ことのほか、他者の発するエネルギーに敏感だ。それは常に何かをチャネルしていることを意味する。だから、人の虚や実を見通し、真の姿をキャッチしながら、自分自身の内的な不整合に苛立っている。

他者と関わりたいと願うのは人みな共通する願いだし、欲求だ。そこで友愛が生まれ、真の関係性が築けるという大きな期待がある。

しかし、その前提は、まず自分自身の内的な不整合を調和させなくては築きあげるはずもない。互いに、ATフィールドを展開させ、虚像のバリヤーで守るだけの関係性に終わってしまうからだ。

われわれの多くは他人に対しては侵食タイプなのに、自分に関しては拒絶タイプなのだ。だから人のことはすぐに分かるのに、自分のことはなかなかわからない。そして人に突っ込まれて痛い思いをし、二度と入り込ませないように固く拒絶する。それではどこまでいっても「ヤマアラシのジレンマ」だ。

ハイヤーセルフと繋がり、ロアーセルフを癒し、解放する。それはチャネリング以前に、これからすべての人が必要なことなのではないかと、僕は思っている。そうでなければ、どうやって人格を丸く収められるというのだろうか。想像もつかない。

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