自分が相手の足かせになっている

Jesus Christ, that hurts!

パートナーとの関係性の中で出て来る、様々なネガティブな感情が、どんな定義から来ているかを分析し、整理することで、ずいぶん多くの不適切な信念や定義付けを持っていることが明らかになる。認識しただけ、無意識に支配されることがなくなり、ネガティブな感情を必要としなくなる。

そのなかの一つが、「自分が相手の足かせになっている。自分がいるせいで、相手を阻害してしまう。だから、自分なんていない方がいいのではないか。他の人のほうがいいのではないか」というものがある。そこには、「自分には価値がない」「相手に提供できるものがない」という自己否定の定義がある。

このネガティブな観念には、複数のネガ観念が繋がっている場合が多い。「自分は無力」「自分は愛が足りていない」「相手を束縛して引き止めないと、どこかへ行ってしまう」「愛される資格がない」などなど。すべて、根拠のない思い込みである。しかも、気づいてさえいない。

より深めていくと、「自分は愛されていない」「愛が足りていない」「もっと愛が欲しい」「愛で救って欲しい」という強い愛の飢餓感がある。

このネガティブな感情を引き起こしている観念は「自分が愛すれば愛するほど、愛が減ってしまい、誰かが愛してくれなければ愛が枯渇してしまう」という相当根深い定義が原因であり、「愛は自己犠牲である」という集合的無意識レベルの観念に結びつく。これは地球規模の強いネガティブエネルギーである。

「自分が犠牲を払って、相手のために愛を注いであげているのに、相手はそれを重荷と感じ、やりたいことをやれずにいる。そして私に感謝もせず、むしろ疎んじてさえいる。どうしてこれほど、身を粉にして愛しているのに、相手は愛してくれないのだろう。そんなことなら、別れたほうがいいのではないか」

これが典型的な、自己犠牲タイプのネガティブな感情だ。もはや愛ではなく不安と怖れのエネルギーに満ちている。「愛は自己犠牲」のエネルギーは、人間ひとりひとりが限られた愛しか与えられないと定義付けた、きわめて閉塞的なエネルギーなのだ。それが愛の飢餓者を生み、自己否定的感情を発生させる。

「愛は自己犠牲」のエネルギーは「愛」と偽った「不安と怖れ」であり、「束縛」を求める一体欲求である。「あなたが心配」「捨てられるか心配」「愛されているか心配」「浮気しないか心配」。このような心配を愛だと錯覚する。だから、相手が苦しくなる。ネガティブなエネルギーを受容できなくなる。

この深い定義を、なんの疑いのなく、無意識のうちに受け入れてしまったのは、それだけ社会が肯定している、一般的な定義だからだ。だから、そもそもそんなものが自分の中にあるとは思いもしない。だから、感情を分析しながら降りていくと、皆驚く。「こんなことを信じていたのか」と。

そこで、「愛は自己犠牲」というエネルギーにつながっていた部分をリリースし、「愛は信頼」というポジティブな愛のエネルギーに移動させる。ここから自己否定感をリリースしていくと、根っこの部分から改善される。「私は絶対大丈夫」「相手も絶対大丈夫」そこに真っ直ぐすぱっと立てるようになる。

自分を信頼しようとするとき、三次元で生きている、「自我」だけの自分を自分とするとき、そこに不安定感や限定された知識や経験しか持たない自分に対する不安感が出てくるのは当然だ。だから、そこでハイヤーセルフとのコネクションが不可欠になってくるのである。

「愛は自己犠牲」というネガティブなエネルギーから「愛は信頼」というポジティブなエネルギーへの変換は、地球レベルでの遷移が急務だ。だからこそ、一人ひとりが真に自立して地に足つけてまっすぐに立てるようになるための、足固めがチャネリングなのである。

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