創造主と被創造物の分離と統合

God and the Egg: Creation

多くの宗教は創造主の存在について言及している。宇宙創造神。この宇宙が、神々が、世界が、そして人々が、どのように生み出されてきたか。その創造をになった存在について触れている。誰でも一度は疑問を抱くことだからである。いったいこの世界は、誰が作ったのだろうか、と。

自我意識が成長した人々は、自分たちが何らかの意図によって生み出されたのではあるまいかという直観と、目に見える物質世界ではどこにも創造主を発見出来ないという矛盾の狭間にたって、なんとかそれを両立させるような神話を考えた。

これらの神話に共通しているのは、創造した側と、創造された側に、くっきり二分されることだ。創造主と被創造物。多くの神話においてもこれが世界の不文律になっている。もともと創造される前まで、創造主は一人で存在していた。そこから天地創造が生じ、被創造物が追加されたと考えた。

このとき、次のような疑問が生じる。そもそもアダムとイブを作った父なる神は、誰が作ったのか。イザナギとイザナミを創りだしたのは誰か。宇宙の本源の神を創りだした神の神はどこにいるのか。その問に答えてはくれないのだ。

神を創りだしたのは誰なのか。

この問が常に、答えられない質問として宙に浮き続けてきた。しかし、誰も不思議に思うこともなく、深く追求されることもなかった。なぜなら、創造主と被創造物、という二元的な視点が、最も人々に馴染んだからである。

祭典を伴う宗教は、常に二元論的な視点で神を遠くに置く。祭壇に正対し、参拝者は礼拝する。祭壇は創造主を直接拝することはなく、ほとんどが創造主と人間との間を取り持つ特別な人を配する。イエスにしても、釈迦にしても、創造主との間に立つ高次の存在だ。神籬に宿る神もまた、八百万の神だ。八百万の神とは創造主によって生み出された神々であり、西洋的な言い方をすれば精霊や天使と同様の立ち位置である。

一方、天台宗や真言宗、白山信仰、チベット仏教など密教系の宗教は、自分自身の内部に神に繋がる何かがあると知っていた。また西洋ではグノーシス派や、民族宗教、一部の秘密結社の中でも内部の神とつながることを儀式とし、伝承しているものが存在した。そこでは祭壇は存在せず、円環や人間そのものが神とつながる祭壇の役割を果たした。これらが神智学のニューエイジといわれる神秘主義から復活したスピリチュアリズムの先祖である。

二元的な宗教観を持つ人々は、人間が無力で愚かなのは、神の目に叶う良きものになり得ていないからで、だから罰せられているのだと考えた。

一方少数の一元的な宗教観を持つ人々は、ひとりひとりの内面を目覚めさせれば、神に戻ることができると考えた。

一元的な宇宙観では、神も人も世界も、すべて同じエネルギーによって創りだされていると考える。創造主とは、宇宙も世界も、物質世界も精神世界も、神も自然も人間も、すべてに共通しているエネルギーだと理解する。創造主とはエネルギーの総体であり、そこには人間も含まれているのである。

そこでは創造主と被創造物、という二元的な分離は存在しない。すべて同じエネルギーである、という一元的な融合へ向かう。そしてそのエネルギーの巨大なプールから、個別の創造が生じたのが、この世界なのだと理解するのである。人々が海水の一滴だとすれば、海は創造主であり、規模や働きは違えど、同じ海水であることに変わりはないと考えるのだ。

ところが、ここで個性を認めず、全体性の中に埋没させようとするダイナミズムが全体主義であり、ファシズムを生じせしめた。一元論は行き過ぎると個の尊厳を完膚なきまでに否定する危険があることを、人類は身を持って知ったのである。

一元論は一体感を通して、愛や一体感、そして制限を外し、高次の目覚めへと促す。いっぽう二元論は分離を通して、自由や個性を確立させ、他と区別し、地に足をつけて生きることを促す。両者の統合が、新たなる宗教観に不可欠なものなのである。

祭壇の神に手を合わせるとき、自分は神とはかけ離れた愚かで小さな存在であり、神に縋り、救ってもらわなければ幸せになれないと考える限り、自分の中の神に気づくことはできない。かといって、すべての人間が同じ神の一部であり、個々の差異など存在しないと考えれば、一人ひとりの個性や命の独自性が失われてしまう。

人間は神から離れたことで、自由と個性を得た。しかし、一人ひとりはもともと神そのものの一部であり、心の中からいつでも神に触れることができるのである。

自分が神から分離したことで得た個性と自由に感謝をし、同時に自分の中の神に、自分は神と分離されているのではなく、一つの愛のエネルギーであることを感謝する。このとき、二つの分離が一つになる、三角形の形ができる。これをもって三位一体と理解するのである。

二元論でも一元論でも、人間と宇宙を真に理解したことにはならない。二元と一元がひとつになった三位一体の宇宙観の中に、神と人とが愛と自由で離れながら結ばれることで、無限の豊かな経験を味わうことができることを理解できるのである。

ところで、一元的な世界観では神も人も同じエネルギーから創造される。では、そのエネルギーは誰が作ったのだろうか。あるいはどうやってできたのだろうか。

夕は無を含むことはできるが、無は有を含むことができない。これが答えである。

宇宙が存在するということは有であるということだ。無であるということは、何も存在できないということである。無とは、完璧な無であり、いっさいの有は存在できないということだ。無から有は生じない。つまりエネルギーとは「在る」ということだ。それが存在のすべての根拠なのである。

般若心経では宇宙は無ではなく空であると説いている。無と空は全く異なる概念だ。色即是空の空とは、空間の空であり一元的なエネルギーを指している。色とはその内に充填された個別の意味内容だ。世界を創り出している様々なものは一見すると別々に見えるが、実は皆同じ空、すなわちエネルギーなのである。

無とは、日本語では「~ではない」という否定にもなる。人々が宇宙を恣意的に定義しているすべてを「そうではない」と一旦否定し、空に溶解させているのだ。すると、すべては本来の意味を失い、ただのエネルギーに還元される。意味付け、再定義し、現実創造しているのは人間だと説いている。

つまり、人々は有の世界にいるから、無の世界を想像したり、観念的に設定することはできるが、宇宙が無であるという状態は実際には存在しえない。宇宙が存在するという時点で有であり、その有であるというエネルギーの本質が、多くの物事を生み出している本源なのである。

イメージするのであれば、無限ループ、円環をイメージしてほしい。直線的な進化論はありえない。なぜなら、常に無がありうると前提している。宇宙に無は実態として存在しない。無という実態のない概念しか存在しないのだ。

死んだら無になると思ってる人は多い。しかし、無は存在できない。

三次元から高次元へ移動することがいわゆる死であって、そこでは意識が無になるどころか、飛躍的に拡大する。宇宙エネルギーに還元された時点で、広大な宇宙エネルギーの意識と合一するからである。そこでは時空を大きく超えた意識を体験するだろう。

よかったらシェアください
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次