自分は幸福ではないと感じるわけ

Happiness

多くの人々が、自分は幸福ではないと感じている。

幸福とは、当然ながら主観的な感覚である。客観的な幸福、絶対的な幸福と思われているものは存在するが、その多くは幻想である。

例えばお金持ちになることが幸福であるとか、結婚が幸福であるとか、成功が幸福であるとか、リア充(現実が充実している人を指すネットスラング)が幸福であるとか、数多くの幸福幻想が存在する。

そのほとんどは他者がこのような状況にある他人を見て、羨み、嫉み、憎むために機能しているだけである。

実際、お金持ちになっても、結婚しても、成功しても、リア充であっても、幸福を感じられなかったり、その点だけでは充足できても、他の側面で充足できず、不幸を感じている人は数多く存在する。

客観的に見れば、我々は日本国民に生まれたというだけで、世界の中で極めて幸福な人間の部類に入っている。自由と人権を憲法で保障され、経済的先進国であり、徴兵制度を持たず、水と食料に恵まれ、進んだ科学技術を持ち、車からITまで、誰でも気軽に利益を享受している。

多くの貧しい国の人々は「日本人はなんて幸せなんだろう」と思っている。

しかし、実際には日本人に生まれたというだけで幸せを感じることは難しい。それどころか、日本という国の抱えている深い問題に悩まされ、身動きが取れず、希望を失い、もがいている人のほうが数多いのだ。貧しい国の人々は、理解出来ないだろう。なぜ、あんなに豊かで自由なのに、不幸な人が存在しうるのだろうかと。

宝くじが当たれば幸福になれると夢を抱く。しかし、宝くじに当たったために、殺人事件が起こったり、莫大な借金を抱えた不幸な人のニュースが流れ、やはりおカネだけでは幸福になれないのだと諦める。

結婚すれば幸福になれると夢を描く。しかし、夫婦のセックスレスや離婚の激増が、結婚しただけでは幸福にはなれないことを明らかにする。

成功者に見える経営者が自殺する。成功者のアーティストが破産したり、不倫がバレて転落したりする。成功の幸福は、その後の不幸を帳消しにするわけではないのを、明らかにする。

下には下がいることを理解したければ2chを見ればいい。下の人から見れば、何の特徴もない自分の人生もリア充になってしまう。リア充とは、幸福な人のことではなく、より不幸な人がそれよりマシな人を攻撃するために使う、実態のない言葉に過ぎない。

かように、幸福とは客観的には測れない、主観的な観念である。

ウィキペディアの「幸福」を一見するだけで、歴史上の幸福に関する定義のどれもが、適切さや正確さを欠き、曖昧なことに驚かされる。そもそも、日本語の「幸福」と、英語の「Happiness」さえ、同じではないのだ。

幸福が、人生の主目的なのは当たり前である。それは幸福を説明しているのではなく、幸福の役割を指摘しているだけである。幸福が快楽であり、充足であるのも当たり前である。これらは、「幸福になった人の状態」を表現しているに過ぎない。

「幸福になるとどうなるか」などという結果論など、説明してもらうまでもない。嬉しくて、楽しくて、ワクワクして、毎日不満が何もなく、気持ち良い。それが幸福になった状態である。しかし、それは幸福自体を何も説明していない。どうなったら、幸福になれるのかが全くわからない。

実は、我々が幸福を感じにくいのは、幸福が困難だからではない。幸福に対する定義が曖昧で、明確さを欠いているからだ。だから、枝葉末節に振り回され、他者の意見に惑わされ、実現しても充足を感じることができないのだ。

しかし、幸福は一行で定義可能である。シンプルでソリッドで地に足の着いた、確固たる観念になりうるのである。

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