幸福がはっきり定義できない最大の理由は、不幸があまりに鮮明だからだ。
よく言われるように、苦痛は常に不快感として意識されるが、快楽はすぐに慣れてしまう。それゆえ我々は、幸福をストレートに目指さず、不幸を人生から排除することを中心にして生きている。「貧困」を排除するために働き、「病気」を排除するために医薬を使い、「空腹」を排除するために食事をし、「孤独」を排除するために人と関わっている。
なぜだろうか。
それは「幸福とは不幸が除外された状態である」と定義しているからである。
基本的に、これらの定義に正解や不正解は存在しない。善も悪もない。それらの定義に従って、それぞれの人生がプロデュースされるだけのことである。これを「思考現実化プロセス」と呼ぶ。自分の内なる定義、信念、観念が人生という現実を創り出す。現実がどうであるかが、その人の内なる定義をそのまま鏡のように示している。
大多数の人々が一致している定義を「同意」という。例えば、信号の赤は「止まれ」と定義されている。そのことに、一部の例外を除き、ほぼすべての人が「同意」している。だから、信号は機能し、無人の交通整理が成り立つ。
地動説や地球が丸いという「同意」は、近代以降にできたもので、それ以前は天動説で地球は平らだと思われていた。だから、この世界観に基づいて、世界は成り立っていた。このように、大多数が同意している定義も、時代の変化に伴い変化していくことがある。
さて、幸福に関する「同意」の一つであり、すでにオールドタイプと化している定義が、さきほどの「幸福とは不幸が除外されたものである」というものである。この定義を基礎として生きることにより、どのような人生がプロデュースされるだろうか。
まず、「幸福になるためには、必ず不幸という要素を必要とする」という定義が基礎として存在していることに、気づかなければならない。つまり、不幸を除外→幸福→不幸を除外→幸福、というパターンが展開されるということだ。常に不幸と幸福が相互にやってくる、という人生を創りだしてしまうのである。
例えば「平和」という幸福を味わうためには、「戦争」という不幸が必要である。戦争を除去することによって、始めて平和という幸福を体験できることになる。
「愛」という幸福を味わうためには、「不安」「恐れ」「不信」「苦痛」という不幸が必要である。「不安」「恐れ」「不信」「苦痛」を除去することによって、初めて「愛」という幸福を体験できることになる。
「健康」という幸福を体験するには「病気」が必要である。「豊かさ」という幸福を体験するには「貧困」が必要である。
「現実は苦の娑婆である」という定義に基づくこれらの法則は、常々人生哲学などで語られてきたことだ。そして、それが宇宙一般の法則であり、現実というものだと、半ば諦観として語られてきたものである。
さらに、この定義を単純化し「不幸を除去するための努力が人生」となったり、「人生とは不幸との戦いである」という定義にまでネガティブ化することもできる。
しかし、これらの現実はすべて、「幸福とは不幸が除外された状態である」という定義に同意しているから、生じてきただけなのだ。すべて「幸福は不幸を除去することで得られる」と信じた結果に過ぎない。
実際「現実とは不幸の連続であり、いかにして不幸と闘い、克服するかが人生であり、社会であり、人間の存在価値なのだ」と信じて疑わない人は、とりわけ年配者に数多くおり、その定義に基づいて社会システムが構築されているのが現状である。
だからこそ、まさしくそのような定義にふさわしい現実がクリエイトされてくるのである。
しかし、いわゆる不幸の三大要因と言われる病貧争に対する恐怖が、はるかに解決された現代という時代において、このような不幸を前提にした幸福の定義は、時代遅れになっている。だから、我々は現代の日本に対して、漠然とした違和感、反感を感じているのである。
これは、幸福の定義を最新バージョンにアップデートすべきときだという、内なる要請なのだ。