20世紀まで信じられ、社会システムの基礎とさえされた「幸福とは不幸が除外された状態である」という定義は、大きな功績を残した。人々はこの定義に従って努力した結果、実際に不幸を次々に除外してきたのである。
とりわけ、20世紀までの三大不幸といえば「病貧争」すなわち病気、貧困、戦争だった。
人々は「病気」という不幸を取り除くために、医学を進歩発達させ、医薬を開発し、社会システムとして健康保険を整備した。これにより、誰でも安価に医療を受けられる社会が実現した。
医学以外にも、「病気」にならないための、知識やノウハウが本やテレビで紹介され、健康食品や健康器具が開発されてきた。医療や医学では足らない部分を補うために、代替医療も盛んに行われるようになった。これらの社会の動きは、「病気」という不幸を取り除こうと、人々が努めてきた結果である。
もちろん、そんな現在でありながら、病人は増え、病院は不足し、数々の難病や奇病が毎年増えている。だから、「病気」は今も不幸の原因で在り続けているし、この先も病気の恐怖を除去することが、人々の幸福をもたらすと多くの人々は疑うことなく信じている。
しかし、20世紀前の病気と、現在の病気は明らかに異なっている。
かつて病気の原因は、栄養や休養や医療の「不足」だった。しかし、現在の病気は、栄養や怠惰や医療の「過剰」さゆえに生じている。
不足は選択の余地がない。しかし、過剰は明らかに選択の結果なのだ。
つまり20世紀までの病気は、社会が未成熟だったために生じた。解決すべき問題がたくさんあったのだ。もちろん現在でも社会の未成熟が原因で生じる病気はある。環境要因や、生来の障害などである。
しかし、現在の病気の原因は、ろくに体を鍛えず、栄養を摂り過ぎ、医薬品を使いすぎ、内臓や遺伝子を壊した結果である場合があまりに多い。まるで病気になるようなことをわざわざしているように見える。そこには、明らかに相違があるのだ。
なぜ、わざわざ、病気になるようなことをあえて行うのか。それは、「健康とは病気を除外すること」だと定義しているからである。
この定義に従うなら、健康を体験しようと思えば、いったん病気になるしかない。健康に関心がある人ほど、健康よりも病気に関心があるのは皮肉なことである。常に病気を恐れ、病気にならないように、過剰な治療を行ない、神経質な生活習慣を守って、ストレスを蓄積し、結果として思ったとおり病気を引き寄せてしまう。
また健康に関心がなさすぎて、毎日の食事をコンビニ弁当やファストフードの外食、菓子パンやカロメですます若者は、長生きとか健康をそのものに関心を持てなくなっている。生きていても楽しくないのに、長生きしたってしょうがないからである。
「不幸を排除することが幸福」と定義している社会では、まずどっぷり不幸にならない限り、幸福になれない。しかし、現実は「不幸になるのが難しい社会」にまでになっている。だから、幸福になる前に、徹底的に人為的に不幸になろうと努力しないと、不幸にすらなれない。だから、わざわざ人間関係を複雑にし、仕事を苦しくさせ、ストレスを貯めこむような社会を維持している。
しかし、一皮剥けば、それらには何の合理的な目的も必然性もない。「この仕事がもし地上からなくなったら、誰が困るのだろう」と問いかけたとき、自信を持って「絶対に必要だ」と言い切れる仕事は殆ど無い。まるで、ストレスを必要とする人々にストレスを提供するために、仕事の多くは存在しているのである。
健康以前に、人としての充実や幸福の定義が、不幸を必要としすぎている。
すでに病気になる必要のない時代になっているのに、なくならないどころか、さらに複雑でややこしい病気が増えているのは、健康の定義が不適切だからだ。健康を追い求めれば追い求めるほど、病気が複雑化し拡大してしまいかねない。
我々は、病気にフォーカスせずに、健康を自立した幸福の一つとして、定義し直さなければならない時期に至っているのである。