富=貧困を除外すること?

さて、人々は「貧困」という不幸を取り除くために資本主義に基づく経済システムを発達させ、雇用によって生活を支え、社会福祉によってリスクマネージメントする社会を築き上げた。

20世紀まで人々が苦しみ、怒りを感じてきた富の不平等をなくし、社会に奉仕しただけの報酬を自由に得られる社会を創り上げることで、身分や性別などに左右されず、高い収入を得るチャンスが万民に開かれたシステムを作ったのである。

これらは、「貧困」という不幸を取り除き、世界的な規模で才能や業績に比例した富を得られる社会を築こうと人々が努力した結果である。

しかしながら、資本主義のシステム自体の持つ富の流動性は、ときに国の財政を超えた偏りを生んでしまう。世界的な豊かさの不均衡は存在し続けており、先進国の豊かさに比して、発展途上国の悲惨な貧困さという問題がそのままである。

先進国であっても、発展が飽和状態に達したことで豊かさが減速するという現象も生じている。現在のヨーロッパ連合や日本がまさにこれである。中国や韓国の急速な発展とは裏腹に、すでに飽和状態に達した日本は成長が減速し、20世紀後半の豊かさはもはや望み得べくもない状態である。

皮肉なことに、発展途上で為替相場が低いと輸出で儲けることができるが、発展飽和すると円の価値が上がってしまう。すると輸出で儲けることが難しくなってしまい、国全体の景気も後退してしまうのである。アメリカのように資源のある国は資源を売ることで稼げるが、資源のない国は貿易が行き詰まると、即座に経済に影響を及ぼしてしまう。

しかし、このような富の流動性は、世界規模で見れば必要不可欠な性質なのである。

見方を変えれば、貿易による経済成長を享受してきた日本が十分発展したことで、今度は発展の遅れていた中国や韓国が、成長するべく資本が移動したに過ぎない。ヨーロッパが発展し、アメリカが発展し、日本の発展があり、アジアの発展へと続き、その後はアフリカや南米へと移っていく。

資本主義とは、市場という大多数の人々の価値観を反映しつつ、地球規模で富のバランスをとるシステムなのである。日本にとっては都合が悪いかもしれないが、世界的には必要なのだ。

とはいえこの資本主義システムは、過去の帝国主義や独裁国家による富の独占よりははるかに自由で平等であるとはいえ、完璧なシステムではない。第二次世界大戦から冷戦を経て、21世紀初頭までは、欠点よりも利点が効果を発揮し、ここまで世界規模で世界の富と、それに付随する各国の争いを沈静化してきたが、もはやこのシステムの土台となっている定義もオールドタイプ化してきているのである。

とりわけ日本は数多くの矛盾や問題、弱点を抱えている。バブル時代に頂点を迎えた日本経済は、バブル崩壊後、戦後以来右上がりだったGDPも、横ばいとなった。急激な高齢化と少子化による税収の悪化、年金政策の行き詰まりを迎えながら、構造改革と称する政策によって自由化された経済は、競争社会とコスト圧縮政策をうみだし、会社や地域社会といったセーフティネットを次々に破壊した。

長期に渡るデフレが企業の合理化を余儀なくさせ、正社員のリストラが蔓延し、雇用者の三人にひとりが派遣社員や契約社員といった非正規雇用となった。非正規雇用の三分の一が生活保護以下の収入しか得られず、生活保護を必要としながら受けていない人々は、少なくとも六百万人にも上ると言われている。いまや日本の貧困率は十五%であり、米国に次いで世界第二位の貧困率である。

こうして日本は、21世紀に入って米国に次ぐ貧困大国となったといわれている。

しかしながら、これらの負の裏側には、ポジティブな面がある。戦後日本の人々は、ひたすら貧困から抜け出し、物質的な豊かさを得るために特化した社会を創りだした。実際、そのおかげで我々は戦後、衣食住に事欠く有様から、多くの家庭で自動車や白物家電、テレビや電話を持てるようになった。

その引き換えに、一人ひとりが自分の才能を伸ばし、好きなことややりたいことを追求して社会貢献する代わりに、会社に就職して組織に奉仕することを仕事として与えられるようになった。

一人ひとりが何が好きか、何をやりたいかではなく、何が出来るか、どの程度の能力があるかで、仕事が割り振られるシステムだった。学歴によって番付されて会社に割り振られ、就職したあとは終身雇用によって生涯、会社から手厚い経済的な保護を受けることができた。その見返りに、個人的な欲求や意志よりも組織の歯車になることを求められる社会だった。

戦後の日本人は、「貧困」を取り除き、経済的な豊かさと安定を実現するために、一人ひとりの自己実現は、集団のために犠牲にしても仕方がないという社会を創り上げたのだった。

この当時作り上げられた、仕事に関する定義の根幹は「仕事は自己犠牲である」だ。

「仕事に好き嫌いを言ってはならない」「仕事は苦労が尽きものだ」「仕事は遊びとは違う」「仕事は真面目にやらねばならない」「仕事とは己の甘さを克服することである」「会社のために身を粉にして働かねばならない」「会社や上司に逆らってはならない」などなど、まるで修行僧のような定義が会社の理念として語られ、社員教育として浸透していったのである。

ところが、このような自己犠牲に基づき、豊かさの絶頂をきわめたバブル経済であったが、そこで日本人ははたと気づいたのだった。

もう、これ以上物質的な豊かさは必要ないのではないか、と。それよりも、これまで犠牲にしてきた、一人ひとりの個性や充実感のほうがより重要なのではないか、と。我々にとって、物質的な豊かさは、目標ではなく手段に過ぎないのではないか、と。バブル経済真っ只中の浅薄で虚無的な狂宴を見て、多くの人々は醒めたのである。これは、なにか違うぞ、と。

もちろん、二十世紀の企業人にも、会社への滅私奉公の中に、自己実現や内的な充実を感じた人がいなかったわけではないが、それはごく一部の成功者に限られていた。多くの人々は、好きか嫌いかではなく、得意か不得意かで人生を決められ、幸福を味わう間もなく、馬車馬のように働いたのである。それが人生だと、信じて疑わなかった。

なぜなら、「貧困」を排除することこそ、幸福だと定義していたからだ。

バブル経済以降、急激に旧来の会社組織が機能しなくなった。終身雇用制度が成り立たなくなり、リストラが繰り返されるようになった。それによって、我々は経済的なリスクに直接さらされるようになったが、代わりに組織から自由になったのである。

この、急激な内的変化はまだ起こり始めて十年足らずであり、教育も、政府も、行政も、全くこのシフトに追いついていない。旧態依然とした、過去の会社組織に依存したシステムが数多くそのままになっている。

事業仕分けで表沙汰になった無数の独立行政法人などは、天下りという官僚保護システムの遺跡のようなものであるが、かつては民間会社も同じようなことをしていたのであり、日本そのものが組織を傘に、滅私奉公した構成員に十分な保護を約束したのである。

こういった組織が個人を保護する仕組みが次々に破壊され、個人がむき出しにされる代わりに、組織の束縛から半ば強制的に開放されているのが、現在の時代状況なのであり、これは敗戦というパラダイムシフトに匹敵する、根幹の変化を現在我々は体験しているのである。

それもこれも、もとはバブル崩壊後の長期に渡るデフレが原因となっている。このデフレの原因は、需要の減退である。日本国民がモノを買わなくなったのだ。モノに飽和したのである。

我々は今や、モノの豊かさ以上の何ものかを求め始めた。だからデフレを引き起こし、経済が停滞し、不景気になり、リストラと会社の合理化を結果的に促進させた。モノの豊かさと安定を願う社会から、別の社会へと変革しようとしているのである。

これらのパラダイムシフトが、国民の潜在的な意図によって急激に起こっているのだ。

要約すれば、「貧困を除外することこそ幸福」という定義から、別の幸福の定義へと大きく移行しようとしているのである。

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