我々は自分の中に、神の分け御霊があるとは知りません。仮に知ってはいても心から信じていません。相変わらず、現実の中に、実際には何もないのに、恐れや不安を見いだそうとします。
お金の不安、生きていく不安、健康の不安、暴力の不安、死の不安、愛の不安。無数の不安のすべてが、自分の中にある大きな強い力に気付かず、自分を弱く儚い存在と考え、現在の苦しみ多き状態から脱皮しようとしないで、とどまり続けようと躍起になっています。
それが執着であり、欲求です。
安全でありたいと願う安全欲求。
人に認められたいと願う承認欲求。
自分の思い通りにしたいと願う制御欲求。
皆と一体でありたいと願う一体欲求。
皆と離れていたいと願う分離欲求。
執着とは、この五大欲求のことです。この五つの欲求はすべて、不安と恐れのエネルギーを持っています。この恐れのエネルギーを手放し、内なる神が輝き出すとき、一人一人が愛と自由の道を自ずから歩み出すのです。
我々は今もなお、我を中心に据えて生きています。執着・五大欲求を日々心に抱き、宇宙に解き放ちます。
我々の内なる神は「愛」と「自由」と「豊かさ」を求めています。
思考と感情は「不安」と「恐れ」を解き放ちます。
それゆえ、愛を求めながら恐れを放ち、信頼を求めながら不信を放ち、確信を求めながら不安を放ち、自由を求めながら束縛を放ち、幸福を求めながら不幸の因子を放つのです。
我々は毎日の中で、どれほど多くの不安・怒り・憎しみ・妬み・無力・批判・否定・欠乏の、言霊と思念を放っていることでしょう。それなのに、我々は毎日、どれだけ多くの平安・愛情・慈しみ・誇り・力・賞賛・肯定・豊かさを求めているのでしょう。
この願いと思いの果てしない矛盾こそ、現実が不条理となる真の原因ではないでしょうか。
現実は、そんな我々の矛盾した願いと思いを、その通りに映しているだけなのです。いつか我々が、自分で自分の現実を作り出しているという、本当の自由に気づけるように。