ネガティブな運命観

Destiny does not exist

では運命観とはなんなのでしょうか。

現在、多くの人は、最初にも言ったとおり、運命とは、この現実の中で、我々の認知を越えた存在によって左右され、翻弄される、不条理性だと考えています。

結婚に関して言うなら、出会った相手が理想のパートナーなのか、それとも落胆や失望を招く相手なのか、我々にはわかりようがなく、それはもっぱら運命という不条理性によって左右される、曖昧で、予測できない、不確定なことだと思ってしまいます。

つまり運命観とは、この現実、この三次元をどのように定義し、考えているかと言うことでもあるのです。

多くの人々は、現実が不条理で不確定で、先の見通しが立たないと、恐れおののいており、その恐れや不安を正当化し、諦め、飲み込むために、目に見えない運命の神という曖昧で気まぐれな暴君を作り出しました。

この曖昧で気まぐれで不条理に充ち満ちた、危険な運命の神に、結婚までもがゆだねられているとすれば、幸せになるのはきわめて困難だと言わざるを得ません。

ネガティブな運命の神は、宝くじに代表されるように、ごく一部の幸運なものと、大多数の不運なものに分けてしまいます。その間に、明確な根拠はありません。すべて、ランダムです。これでは、たまったものではありません。

しかし、これらのネガティブな神、ネガティブな現実観、運命観は、すべて人間の不安と恐れが作り出した幻想に過ぎません。

我々は、もともと宇宙や現実はそのようなものだと信じていますが、実のところ、それは反対で、人間が恐れや不安で現実を見つめ、定義づけているために、このような現実を創造してしまっているだけなのです。

たとえ幻想であっても、その信念・観念・想念を深い部分に抱えているのであれば、思考現実化プロセスは正確にその信念を反映します。それゆえ、現実は、わざわざ我々の望みに従って、不条理な現実を作り出すのです。

「ガラスの仮面」という有名なマンガがあります。この物語の後半、「紅天女」に関する話の中で、主人公のマヤは、師の月影先生に「魂の伴侶とは本当にいるのか。私にもそのような人がいるのか」と問いかけます。すると、月影先生は「あなたにいるかどうかはわからないが、もし魂の伴侶と出会えば、必ずその人だとわかる」と言います。

実際にマヤは魂の伴侶と呼べる存在に出会うのですが、様々な障害によってなかなか結び合うことが出来ません。また、師の月影先生も、魂の伴侶と呼べる存在と出会いながら、結婚することなく死別しています。

この物語は、魂の伴侶というすばらしい存在は確かに存在するけれども、出会うのは難しく、仮に出会えたとしても、現実には様々な問題や障害が起こり、一瞬結ばれるのみで、結婚という形にはなり得ない、と語っています。

さかのぼれば、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」もそうです。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」も、「ニーベルングの指輪」におけるジークフリートとブリュンヒルデもそうです。「失楽園」も、「ノルウェイの森」もそうでした。

運命のパートナー、魂の伴侶との出会いを描こうとすると、皆最後は死で、幸せな結婚には至りません。幸せな結婚に至るのは、ディズニーの子供向けファンタジーだけですが、我々はそこにリアリティを見いだすことがなかなか出来ません。

それはなぜなのでしょうか。

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