大辞林によると、運命とは「人間の意識を超越して人に幸不幸を与える力。また、その力によって巡ってくる、幸不幸のめぐりあわせ」とあります。
この定義に従って「運命のパートナー」を論理的に考えてみると、「運命のパートナー」とは、自分の意志とは無関係に、何かの超越した存在が定めた、逃れたくても逃れられない因縁の相手だということになってしまいます。
自分が望もうが、望まなかろうが、運命が決めたパートナー以外の人を選ぶことが出来ないというのです。もし、その相手を見つけ出すことができなければ、たとえすてきな人と結婚したとしてもうまくいかず、一生幸せな結婚などできないことになります。
この定義に従うなら、運命のパートナーに出会いたいなら、ベストの選択は「何もしないこと」でしょう。
どうせ、その人以外に選ぶことが出来ないのなら、何もわざわざ苦労をしたり、ここまで書いてきたような内的努力などする必要はありません。しなくても、出会えるわけですから。
実際、世間多くの結婚を見てみると、自分の理想や内的な直感に意識を向ける人はわずかで、ほとんどの場合は「成り行きで」「行き当たりばったりで」「衝動で」「できちゃったから」結婚しています。
外的にはいろいろしているように見えますが、実のところ結婚に向かって、内面的なレベルアップを真剣に行っている人は希です。内的には何もせず、運命と衝動に身を預けてしまう。だから、その相手が自分にとっての幸せに繋がる相手なのか、何もわかりません。
感情の赴くまま、その場の盛り上がりで恋愛し、子供が出来てしまい、結婚してしまう。あるいは、学歴とか勤め先とか年収、外見、性格、趣味といった、変化しやすい、その場限りの限られた情報に基づき結婚を選択します。
これでは、結婚は博打に等しい。リスキーなギャンブルです。
たとえは悪いですが、世間の結婚は競馬と同じです。馬券を買うとき、競馬新聞を読み、様々な情報を集めますが、結局はどんな情報も結果を推測するための情報にはなり得ません。自分が何を選択すればいいかわからないから、不確定な未来を少しでも晴らすため、ささやかは励ましに過ぎない情報を必死で集め、あとは運に任せて行き当たりばったりに選ぶしかないと考えます。
これらすべては、運命に対する考え方、定義の問題です。
多くの人の中で、運命に関わるネガティブな定義が強く働いています。
「運命は自分の思い通りにはならない」