運命のパートナーの出会いとは、どのようなものだと想像するでしょうか?
相手を見ただけで、なんの理由もないのに胸が高鳴る。天啓のように、「この人が運命の人だ」という声が聞こえてくる。一目惚れ。胸がわしづかみにされる。何度も信じられないような偶然が重なる。この人こそ、理想の人だ!と瞬間的にわかる。
この燃焼のプロセスでは、実際に自分が「こうあってほしい」と願う運命のパートナーとの出会いを実際に体験します。相手を見ただけで胸が高鳴り、天啓のように「この人が運命の人だよ」と声が聞こえ、信じられないような偶然が重なり、やっと出会えたという思いが全身を駆け抜ける。そこまで過激ではなくても、まさに理想の人が目の前に現れたとしか思えないような体験をします。
でも、夢を打ち砕くようで申し訳ありませんが、ほとんどの場合、この人は運命の相手ではないことが多いのです。
もし、現在そのような恋をしている人は、この文章を読んでも絶対に信じないでしょう。まさに熱病のように、幻覚を見ているかのように、自分の理想の中にどっぷりとつかり込んでしまいます。独身の時でも大変なのに、これが結婚した後にくるとさらに大変なことになります。
周囲から見ると、そのような燃焼状態の中にいる人は、ある種、喜劇的な状態に見えます。あまりに現実離れした考えや、物語を作ったり、相手を理想化したり、偶像化したりします。この状態で、もし相手と身体まで一つになったとしたら、そのまま死んでもいいと思うくらいの忘我の体験をするかもしれません。
まさに「トリスタンとイゾルデ」状態です。
ほとんどの人は、この状態こそ理想の状態、頭のヒューズが二・三本飛んだような状態を、究極の恋愛であり、幸福の絶頂であるとイメージします。そして、もしこのような体験をしないまま、結婚したとしたら、どこかで何かを置き忘れてきたような、欲求不満をくすぶらせたままで生きなくてはならないと感じていたりします。
これも、我々の中に潜んでいながら、ほとんど注意されることなく野放しになっていたが故に生じる、思考現実化プロセスの一つです。男女の性愛を通じて、さまざまな人間的束縛から解放されたい、自由になりたいという欲求です。最初の憧憬がそのまま現実化したような、魔法にかかったような感じで、のめり込んでいく自分をとどめることができないのです。
三次元や二次元という遠い存在に過ぎなかった、憧れや理想が、まるで生きたまま人間の形を取ったように目の前に現れます。
何度も騙されまいと疑っても、それを何度も何度も覆すようなシンクロニシティが連続し、逃れることもできないまま、のめり込んでいく自分を止めることもできません。狐に化かされるように、自分でもわかっているのに、愛情が炸裂するのをとどめることができません。
運命のパートナーに対する今までのプロセス、触発→憧れ→欠乏→切望でため込んだエネルギーが、ここで一気に解放されていきます。無数の恋愛物語がこのような絶頂体験を物語にします。
そして、そのほとんどがハッピーエンドでは終わらないように、いつかは現実に中に帰る日がやってきます。
それはほとんどの場合、ずたずたにされてしまいます。
ある意味では、命をかけて、人生をかけてでも手に入れたいと思っていた、理想のパートナーに出会ってしまった以上、そうするより仕方がなかったのです。にもかかわらず、離れなくてはならなくなっていきます。現実の相手は、自分の理想の投影に過ぎず、だんだん自分の思った相手とは全く違っていたことに気付くときがやってきます。最後はまるで幻のように消えてしまいます。
あれほどリアルだと思った相手に見た理想のイメージは、まさに現実化する寸前の強力なパワーをそのまま映し出していますが、我々の中に「そんな理想の相手と現実にうまくいくわけがない」という強力な信念・観念・想念があるために、ごっそりと手放すことになるのです。
こうして、「やはりすべては幻だったのだ」という果てのない絶望感、失望感がやってきます。
このプロセスの重要さは、ここまでため込んできたエネルギーを、執着もろとも一度手放すことにあります。この恋愛体験は、悲恋に終わることがほとんどではありますが、やがては自分だけのかけがえのないすばらしい体験ともなるでしょう。それほどまで、甘美で愚かしい自分を味わうことは、滅多にないからです。
自分だけはそんな馬鹿なことはしないと思っていたのに、実際になってみると、同じような愚かしいことをするのです。でも、そのときの感情や感覚は、どんな芸術家でも体感できないほど美しく、魅惑的で、光に満ちた現実なのです。そしてそれは、近い将来に、まったく別の形で体験することになる祝福された合一の体験となってくるのです。