憧れの段階で、まだ恐れや不安を感じないで行動した結果、ほとんどはうまくいかないという体験をします。なぜかというと、将来真に運命のパートナーとの出会いを体験したいのであれば、その究極の愛と融合の体験の前に、まずその相対性として、正反対の体験も知らなくてはならないからです。
これを「振り子の法則」と言います。
幸福とは、一度不幸の側に振り子が振れて、その振り子の手を離したとき、はじめて不幸から、幸福へと大きく動き、味わうことができるのだというのです。
私たちは、日本というとても恵まれた平和な国に生まれながら、なかなか「幸せ」を実感できません。戦争を体験した人は、「今ほど幸せな時代はない」といいますが、生まれたときからいまの世界に生まれた若者は、これは幸せではなく当たり前の状態なので、幸せになりたければ、常にそれ以上を求めなくてはなりません。
しかし、今以上がもうそれほど望めないとなると、どんなに幸せな状況の中にあっても、幸せを実感として体験できないのです。
それはなぜかというと、幸せと感じるのは、もっぱらその人の主観であり、その主観は相対性であると言うことです。「幸せは相対的」というところで詳しく説明しますが、幸せを体験するために正反対の経験は不可欠で、それがあるから出会いが喜び、感動、幸せとして体験できるのです。
愛を経験したければ、愛のない状態を経験しなくては、愛も経験できません。
今、自分は愛に中にいるといくら知っていても、実感が伴いません。
だから愛に感動できません。
豊かさを経験したければ、豊かさのない状態を経験しなくては、豊かさも経験できません。
今、自分は豊かさの中にいるといくら知っていても、実感が伴いません。
だから豊かさに感動できません。
健康を経験したければ、健康のない状態を経験しなくては、健康も経験できません。
今、自分は健康の中にいるといくら知っていても、実感が伴いません。
だから健康に感動できません。
生命を経験したければ、生命のない状態を経験しなくては、生命も経験できません。
今、自分は生命の中にいるといくら知っていても、実感が伴いません。
だから生命に感動できません。
幸せを経験したければ、幸せのない状態を経験しなくては、幸せも経験できません。
今、自分は幸せの中にいるといくら知っていても、実感が伴いません。
だから幸せに感動できません。
そのために、あえてここでは失敗を体験する必要があるのです。
もし、体験しなくても、幸せを体験できるのであれば、すでにその体験を生まれてくる以前の世で行い、魂レベルで習得した結果でしょう。その場合は、すでに体験し、学んだという充足が魂にあるので、それほど強烈な反対の体験を必要としません。ほとんどの人がそうでしょう。
幸せになるためのエネルギーが非常に強い場合、リスキーなことに挑戦したがります。それがこの理由です。
なかには幼なじみがそのまま運命のパートナーだった、ということもあります。許嫁がすでにいたりする場合です。幼なじみで子供の頃から互いに好きだったもの同士でも、弟が死んだり、ライバルが出てきたり、いろんなドラマを経たからこそ、最後に結びあう幸せが生まれるのです。
もしそれがなく、淡々と結婚していたら、その後きっと自分の幸福を確かめたくなって、さまざまなドラマをあとで生み出したことでしょう。
結婚後であっても、結婚前でも、もちろんどちらだってかまいません。が、運命のパートナーとの出会いを体験し、幸せな結婚を味わいたいというのであれば、まず先に、ネガティブな体験を一通りしておくと、あとはとても楽です。
若い頃の失敗は、甘酸っぱい記憶に変えることが可能だからです。失恋、別れ、傷心、孤独、劣等感等々、ネガティブな経験は、どれ一つとっても楽なものではありませんが、理想のパートナーに出会い、心と体が分かちがたく結び会えば、すべては帳消しにできてしまいます。
しかし、結婚後の失敗は、甘酸っぱい記憶と笑って済ませられるほど、簡単には済まない場合が多いのです。精神的な傷を周囲に与えるだけでなく、経済的にも、物理的にも、大きな問題を抱え込むことになります。嘘もたくさんつかねばならないでしょう。
自分を不幸にする種は、ほとんどまず自分が先に蒔きます。それが「無邪気」であってもです。何も知らないとき、恐れを知らないときにこそ、多くの人を損なったり、傷つけたりすることがあります。このへんは、村上春樹の小説群を一読するとよくわかると思います。
一見不条理に見える不幸の種は、自分の中にある「他人なんてどうなってもかまわない」という信念・観念・想念です。その種が「あなたなんてどうなってもかまわない」という人と出会う体験となって現実化するのです。
周囲を不幸にしないこと。それが自分を不幸から守る最大のプロテクションです。
それさえ気をつければ、大いに欠乏のプロセスを楽しんでみてください。
失恋や別離は、自分の中にこれほど涙を流す自分がいることに気付くよい機会です。自分の好きな人を直前にかすめ取られたり、片思いで思いを伝えられずに悶々としたり、どうやって声をかけていいかわからず、いきなりラブレターを書いてどん引きされたり、友人のカップルに嫉妬したり、夜の寂しさに耐えかねて自慰をしたり、かっこわるい自分、みっともない自分に嫌気がさしたりします。
それらすべてが、出会いを大いに盛り上げる神の演出だったことが、運命のパートナーに出会った後、目が覚めるようにわかることでしょう。
欠乏のプロセスは、心の土壌を肥沃にしてくれる、有機肥料なのです。