こんにちは、喜龍一真です。
あなたにとって幸福とは何でしょうか。
幸福になりたいか?
幸福を目指しているか?
いま、幸福を感じているか?
改めてこのようなことは考えたことがなかったかもしれません。日常の中で、我々が鮮明に感じるのは、むしろ苦痛の方です。
足に何かが刺されば、痛みが走ります。それはとてもはっきりとしています。刺さったものを引き抜いても、傷みは続きます。ずきずきと疼く感覚は鮮明です。あなたはずっと、その苦痛を感じ、不快に思い続けます。
そしてこう思うのです。「今日はついてない」と。
しかし、今のあなたの足には、おそらく何も刺さってはいないでしょう。でもそれをして「自分は幸せだ」とは決して思いません。「ああ、足に何も刺さってないなんて、なんて自分は幸せなんだ」などと、人は感じないのです。
多くの宗教では、こういう「不幸には反応するが、幸福には反応しない」という人間の性質を戒めます。そして、日々の感謝を説いています。
確かにそれは、間違ってはいないのですが、それは幸福の本質的な性質を考慮しているとはいえません。幸福とは「不幸ではない状態に対し、意識的に感謝することではじめて感じ取れるもの」ではないからです。
岡田自観は、地上天国とは「病貧争絶無の世界」であると説いています。「病気」「貧乏」「戦争」がなくなること。それが天国であり、幸福であるというのです。
しかしながら、もし本当に言葉通り、「世界から病貧争が根絶されたとき、地上が天国になる」というなら、そんなものは絵に描いた餅に過ぎません。
病気という存在そのものが、この世界からなくなることなど不可能です。生きとし生けるものにとって、死は不可避であるのと同じように、生物から病気が根絶されることなど決してありません。貧困も、戦争も同様です。この世界があるかぎり、なくなることは決してないのです。
光があれば闇もある。それがこの三次元世界の成り立ちです。
陰陽道とは、世界が光と闇から成り立っていることを認めつつ、その両者をいかに統合していくかにあります。
健康があれば病気がある。豊かさがあるなら、貧困もある。平和があるなら、戦争もある。その本質を変えることなど、神でさえ不可能です。
しかし、「病貧争の恐れ」がなくなる、ということであれば可能です。可能どころか、すでにとっくに日本はこの状態に入っています。
我々日本人は、日々病気を恐れて生活していません。
貧に関しても同様です。日本は景気が悪い、経済が停滞しているといっても、我々は日々の生活の中で、衣食住に事欠くということはほとんどありません。
戦争に関しては、国家の憲法自体が戦争を拒否しています。戦争を恐れて生きる必要はありません。
もし、地上天国が「病貧争の恐れがなくなる」ことであるなら、日本のインフラにおいてそれはほぼ実現しています。しかし、殆どの人は今の日本を幸福な世界だと感じてはいません。
そうでなければ自殺者が年間3万人、自殺と認定されない不審死を含めれば10万人もの人が自死している理由を説明できません。
もし、年間10万人が餓死しているというなら、日本はまだ「貧困」だと言わねばなりません。
でも、自殺者の殆どは、衣食住とは別の理由で自分で自分の命を絶っています(その理由については改めて後日書きます)。
これは、幸福の「必要条件」が「病貧争の恐れがなくなる」ことではあったとしても、「十分条件」ではないことを示唆しています。いくら「必要条件」が満たされても、「不幸ではない」というだけであって、「幸福」を十分に実感できるわけではないのです。
では、幸福の「十分条件」とはいったい何なのでしょうか。
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幸福とは「快楽」である、という考えもあります。
では、快楽とはなんでしょうか。
本来は恐れや不安が消え、心も体も心地よい感覚に包まれ、リラックスしている状態のことを意味していたはずです。しかし、実際はむしろ、不安や怖れを「押し隠」してしまうことを意味することのほうが多いのではないでしょうか。
多くの人にとって、快楽とは本質的に恐れや不安を手放すのではなく、酒、セックス、ドラッグなどによる肉体的な快楽や、食べたり飲んだり使ったり賭けたりといった、金銭の浪費によって、不安や恐れから一時的に逃れることを意味しています。
当然これは、肉体や心に大きな負荷をかけてしまい、中毒や依存を引き起こしてしまいます。
快楽を得るためには、お金や体、果ては命までを差し出さねばならない。悪魔と取引しないかぎり、自分は幸せになどなれないという悲観論を軸に生きることになります。
だとすれば、必然的にそういう人生が実現することになります。現実とは、自分の深い意識レベルでの定義や願いが実現するからです。
それが嫌だというなら、自分の内的な定義そのものを変えるしかありません。
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幸福とは「目的」ではなく、「結果」であると考える人も多くいます。
人間が目指すべきは、「正しく生きること」「善を行うこと」「美しく生きること」すなわち「真善美」であり、このような生き方によって多くの人に認められ、成功した人に与えられるのが、「幸福」という名の、神様からのギフトなのだと考えるわけです。
このような価値観を持つ人にとって、「幸せ」になることだけを考えて生きている人は、「自己中心的な人」であり、褒められる人ではないと感じます。
つまるところ、幸福というギフトを手にするには、「正しく生きる」つまりいっさいの法を犯さない人でなければならず、「善を行う」つまり自己犠牲を払う人でなければならず、そして「美しい人」つまり美男美女でなければならない、ということにさえなってきます。
一言で言えば「完ぺきな人」ということです。
そういう、選ばれたごく一部の人だけが手にすることのできる栄光こそ「幸せ」だと考えるのです。
もし自分が幸せでないなら、それは自分がまだ「正しくなく」「善でもなく」「美しくもない」からであって、しかたがないと諦めなさいということになります。
しかしながら、我々は日々完ぺきな人になどなれません。そもそも、人間性とか、完璧さなどは、幸福とは直接関係がありません。悪人であろうと、善人だろうと、普通の人であろうと、幸福な人はいますし、不幸な人も同じようにいます。
どれほど正しく、まじめに、人のためにと生きていても、それが必ずしも幸せには繋がりません。
なんの罪もない人が、災害や犯罪に巻き込まれます。そういうとき、人は「神も仏もない」と言って嘆きますが、それは「真面目に一生懸命生きているのに、なぜ神様は」という思いがあるからです。
しかし、幸福とは「神様」が気まぐれに与えるご褒美ではありません。幸福はむしろ物理法則と同じです。
善人だろうが、悪人だろうが、高いところから飛び降りれば、重力が均等に働き、地面にたたきつけられます。それを「なんで善人なのに死んだんだ」というでしょうか。
幸福とは、神様に認められて与えられるご褒美ではありません。悪魔と取引して味わうことのできる交換商品でもありません。法則を知り、一つ一つ利用するすべを学び、身につけ、作り上げれば、必ず構築できるものなのです。
それは建築とよく似ています。
家は一軒一軒、住む人の願いによって違っています。しかも、時間・空間・資金に制限があります。
その制限の中で、自分の希望を満たす間取りを試行錯誤し、空間をつなげ、調整をします。さまざまな問題が出てきますが、その一つ一つを解決すべく努めた結果、すべてが高い次元でバランスの取れる一点を見出した時、はじめて満足の行く家を設計し、建築することができます。
自分の人生という土地に、幸福という家を建てたいなら、我々がしなくてはならないのは、神に雨乞いすることでもなく、悪魔と契約することでもありません。
宇宙の法則を最大限利用し、妥協することなく、諦めることなく、その一点を見出すための試行錯誤をいとわないことなのです。
もちろん、幸福とは人生全般に関わってくるため、関連する法則は単に目に見える三次元的な領域だけではありません。
多次元の領域に関わっており、目に見えない領域の法則も知る必要があります。その領域を自由に動かせるツールも必要になるでしょう。設計するのに、手書きとパソコンでは能率が全く違うのと同じです。普通なら10年かかることが、ツールを使えば1年で次へ進めるからです。
しかも一人ひとり願い求める内容は異なります。建てる家に同じものなどないように、同じ人生などありません。毎回毎回オーダーメイドです。
だから、それができるのは、自分自身しかいません。
つまり「幸福」の十分条件とは、人によって変わるということです。
しかし、それでは何も論じることができないので、ここでは三次元の私の経験を元に、ひとつのモデルハウスを作ってみます。
私・喜龍一真の場合、幸福の十分条件とは、
☆「愛」「自由」「豊かさ」を、一つも犠牲にすることなく同時に満たす状態を作り上げること
でした。
それではまた。