河瀬直美監督の「玄牝」という映画を見た。
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マイナーな映画なので、小さな小さな映画館で見た。自然なお産で著名な、吉村正院長と岡崎の吉村医院のドキュメンタリー映画である。
今までもテレビや映画などで、数多く取り上げられてきた吉村医院である。その自然なお産への真摯な取り組みと、お産に臨む妊婦や赤子の美しさ、神秘さに焦点を当てた作品のいくつかを観てきた。
実際に我々夫婦も、吉村医院で二度の出産を体験した。
その中で、我々はただの一般利用者に過ぎないのに、吉村のスタッフの皆さんと少しだけ深く関わったおかげで、普通なら知りえないこと、いわゆる舞台裏の様子も、そこはかとなく知ることになった。
その視点で見ていると、今までの映像にはどこか、物足りなさを感じるものがあった。
どの映像も吉村医院の素晴らしさ、希少さ、理想的なお産への取り組みが、美しい古来の日本的な院内風景と共に紹介されている。また、吉村院長の現代産婦人科医師への歯に衣着せぬ批判もインタビューされ、唯一無二の独自性が力強く強調されている。
実際、吉村院長のお話を聞いていれば、半分は現代医学批判であり、産科医批判である。
吉村医院をわざわざ求める人々は、大なり小なり現代的なお産で、手痛いダメージを受けたり、そこまでではないにせよ不満をいだいている。だから、吉村院長の辛辣な医学批判は、このような女性たちにとっては救いでもあり、言いたくても言えなかった不満の代弁であって、胸のすくような爽快さを感じるのである。
こうして新参の妊婦は吉村医院のファンになり、院長を信頼し、吉村学級の仲間入りをし、わいわい楽しい十月十日を過ごすのである。
それゆえ多くの映像も、このような、妊婦の駆け込み寺でもあり、救難施設的な役割を担ってきた吉村医院と、このような傷ついた妊婦を生み出す現代産婦人科医療に対する吉村院長の痛烈な怒りと批判、という両面で構成されている。
実際、吉村医院でのお産は素晴らしい体験だったし、妊婦期間中の妻は、妊娠以前よりもはるかに健康で溌溂とし、吉村医院での古屋労働へ意気揚々と出かけていったものである。出産当日は家族みなで取り囲み、新たな誕生を固唾を飲んで見守った。素晴らしく感動的な体験だった。
しかしながら、このような妊婦にとっての理想空間である吉村医院の舞台裏では、どれほどの大きな犠牲と負荷が払われているか、殆どの人は気づいていない。吉村院長の強いメッセージの裏側に、どのような哀しみや孤独、断絶、絶え間ない批判、損なわれたコミュニケーションが存在しているのか、知る者は稀であろう。
吉村院長の代弁者として、各地で講演を行っている岡野元婦長にお話を伺ったとき、彼女は「吉村医院の素晴らしさは、吉村先生とスタッフの大きな自己犠牲によって成り立っていることを知っていただきたい」と語った。
この「玄牝」は、あろうことか「光」の部分だけにとどまらず、吉村医院と吉村院長の「影」の部分にまで焦点を当てている。よく、ここまでカメラの前に明らかにできたものだと驚嘆した、というのが率直な感想である。河瀬直美監督の力量と才能は、映画監督を超えて、内的治療者の域に達している。
テレビと映画の違いは、テレビが表層的な情報としての価値を提供するメディアだとすれば、映画は文学や芸術に近いものである。とりわけ文学の役割とは、ものの光の面だけでなく、隠された影の部分にまでも光を当て、失われたバランスを取り戻すことにある。
我々は、この現実に生きる限り、光だけでは生きていけないが、どうしても影から目をそらしがちである。その結果、光と影のバランスが崩れる。そして、影は思わぬアクシデントとなって、抑圧から解放されようと、不幸な現実となって突発的に現れてしまう。
影を光と共に理解し、受け入れ、理解したとき、そこには大きな和解と救いが生じる。そして大きな統合が起こって、融合とまとまりが、大きな飛躍と進化を促す。これは個人も組織も同じである。
ちょうど、吉村医院はまさにこのような変化の時期を迎えていたのだと思う。
吉村院長の親子関係、スタッフとの関係という中心軸でのブレは、吉村正という存在そのものの光と影のブレであり、そのブレの大きな修正を、皆で取っ組み合って行なった成果が、この映画の中に刻み込まれている。
イニシエーション・死と再生、という言葉はすでに使い古されてしまったが、人の内面の死と再生は、そんなになまやさしいものではないのだ。まさに命がけである。
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この映画をみていて、ずっと思っていた疑問がある。
それは、「自己犠牲なくして、奉仕することは不可能なのだろうか」という本質的な疑問である。
イエス・キリストの磔刑が象徴する「愛は自己犠牲である」という定義。吉村医院の運営もまた、院長の根幹としてこの定義が基礎となっている。だから彼は、妊婦の理想空間を形にするために、家族を犠牲にし、そしてスタッフに犠牲を強いた。
美しい妊婦の幸福と充実に満ちた吉村環境という光の面。その裏側で、どれほどの人生が犠牲にされてきたのだろうか。
私の父親は宗教者だった。同じように自己犠牲ことが愛だという定義を当然と考えていた。そして家族に犠牲をしいた結果、母と私が肺結核に罹患し、それぞれ一年近く苦しまなくてはならなかった。
宗教者や医師だけではない。多くの人々が、会社に自分を捧げ、自己犠牲を払うことによって糧を得る。自己犠牲を払わなければ、愛を手にすることができない。それが、現代社会の、前提となっているのである。だから、誰も意識しないし、疑問にすら思わない。
しかし、私はそこがずっと引っかかっていた。犠牲にされた側だからこそ、切実なのである。それはちがうのではないか。何も犠牲にせずとも、行える愛という形がありうるのではないか。誰かの利益のために、誰かが何かを損なわなければならないのか。
それは間違っているのではないか。
吉村院長と長女とのやりとりは、私と父のやりとりと全く同じだった。あまりに同じで、思わずため息を付いてしまったほどだ。まったく言葉がやり取りできない。はねつけられるだけ。犠牲にされた側からの攻撃に、すべての交流を絶って防御する鎖国的態度。
努力という名の自己犠牲を免罪符に、犠牲をしいた側の言葉に耳をふさぐ。それは、最も痛い言葉だからである。そうするしかなかったのだ。どうすればよかったというのか。愛は自己犠牲だ。ならば、犠牲にできるものは自分と家族しかないじゃないか。
すまなかった、とすら言うことができない。
「愛は自己犠牲である」という信念をもとに生きたことで、彼らは常に孤独である。家族が周囲から離れていく。スタッフの気持ちが離れていく。でも、それはしかたがないと諦める。唯一、心を交し合えるのは犬だけである。
そこには深い孤独と哀しみがある。
これだけの愛を行って来て、なぜ愛ではなく孤独で報われなければならないのか。もしそれが現実だというなら、救いというものがない。
次世代である我々が、もっとも変革しなくてはならない場所は、おそらくはそこである。気づかなければ、今度は自分が家族やスタッフを犠牲にし始めるだろう。どこかで、負の連鎖を断ち切らねばならない。
「愛は自己犠牲」に変わる新たな定義に基づく生き方を、我々は模索していかなくてはならないのである。
老子の「谷神不死。是謂玄牝」から取られた「玄牝」というタイトルは、まさにこのことを象徴しているように思われたのである。
©Muneo Oishi 2010
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嫁さんも感想を書いています。よかったら読んでみてください。
りーべるヒーリングで幸せスパイラル
●映画「玄牝」を観て
http://ameblo.jp/lieber515/entry-10736331470.html