生きる体験をよりリアルにするために、多くの仕掛けが作られ、新たにバージョンアップされてきたのが歴史だとも言える。あくまで比喩だから、完全に説明できるわけではないが、映画のたとえはわかりやすいだろう。
「愛」を忘れず、「神」のことも忘れずに、ごっこ遊びをしていた大昔の人類の状態は、だんだんつまらなくなってきた。もっとリアルに体験したいという欲求が高まってきた。
それまでは、主役の自分はあくまで演じているとわかって、ごっこ遊びとわかって物理次元を体験していた。しかし、今度は違う。「愛」を忘れ、「神」を忘れ、この物理次元が何のためにあるのか、自分がどこから来たのか、何も知らずに気づいたらこの物理世界に放り込まれるという状態に、皆で変化させてきたのである。
大きなターニングポイントがやってきたのだ。
神が大いなる意志としてそうしたのではなく、個々に別れた魂がごっごあそびを通じて、「個として生きる」ことの喜びを体験し、より以上のその喜びをリアルに体験したくなった。
それが「自由」なのである。
「愛」に包まれて生きていたら、その満足の中で一歩も出る必要はなかった。そういう時代が長く続いた。しかし、人間は退屈してきた。もっともっと味わいたい、体験したいと思った。誰でも、毎日同じことばかりしていれば、どんなに幸せだって退屈してくるだろう。人間にとって一番つらいのは、苦痛でもなく、苦悩でもなく、暇なのだ。
人類は極楽浄土の世界で、退屈さにとことんうんざりしたのである。だから、物語を求め始めた。かりそめの物語に一喜一憂することに喜びを感じ始めた。やがて、かりそめではなく、本気でその物語に同化して、より鮮明に体験をしてみたいと思った。一人一人の自我が目覚めだしたのである。
神という全体の意識では体験できない多様な可能性をそこにみたのだ。
要するに、この物理次元は刺激的で、官能的で、破壊的で、創造的であり、ワクワクしたのだ。だから、もっとそこで個として生きてみたくなったのである。
ネガティブな部分では、「愛」を忘れず、「自由」でもないまま、強い体験をどんどん求めるようになった結果、文明が滅びている。実際、地球上で人間は全滅している。
強い刺激をどんどん求めるし、創造のエネルギーは強烈だし、死は怖くないし、そんな制限のかからない人間たちが刺激を求めれば、当然結果は崩壊だ。デッドラインを越えてしまうわけだ。
これがアトランティスの崩壊として伝わっている、出来事の本質だ。ときどき、実際に滅んでいく様を記憶している人がいる。
さて、こうして最初の文明が崩壊し、次の段階へ移った。当時の彼らは、物理次元の死なんて、痛くもかゆくもなかった。ただ、失敗したという感覚は今も相当残っている。地球規模でつぶれたのだから、その景色たるや、想像を絶するすさまじさだった。このときの深い後悔は、今もかなり残っている。それが個々の創造の力を大きく制限している要因にすらなっている。
宇宙からこの破壊劇を見物していた高次の生命体の中でも、このときの強烈さは語りぐさになっている。それが宗教書や、多くの神話の中にも語られている。地軸は傾き、生物は激変し、大陸から海から大きな影響があった。しかし、一番大きかったのは、人間が次の段階に入ったということだ。
そして、さらにひどい状態になった困難な物理次元に、いっさいの記憶をなくして生まれてくるようになった。
「自由」を体験するために、「愛」を忘れたのである。
なぜ、ここまで困難を求めるのだろうか。もっと楽に生きたらいいのに、と思うかもしれない。
しかし人類は、楽に生きるということを何億年も経験してきて、心底うんざりしてるのである。退屈はもう十分味わったのだ。今や、人類が求めているのは、楽に生きることではなく、刺激的な体験なのである。ジェットコースターのように、あるいはロミオとジュリエットのように。
物理次元が生き生きと脈動している今、神霊の世界は退屈どころか、ワクワクに満ちている。おもしろいし、冷や冷やする。特にこの大きな変化の時代は刺激的だ。このままアトランティスの二の舞になるのか、新しい段階に到達できるのか、みんなの総力を結集して働きかけている。暇なんて感じている暇もない。毎日、無限の死と再生が行われている。そこに無数のサポートが働いている。
退屈な神霊時代というのは、物理次元がなかった時代のことだ。神と一つになっていて、宇宙も何もまだ生まれていなかったときのことだ。それはそれは、退屈だ。すべてはあるのに、何も体験できない世界なのだから。
もともと最初は「退屈」さえ存在しなかった。「愛」のなかで、深く充足し、満足しているだけだった。しかし、何かが目覚めた。それが「自由」の萌芽である。「自由」は「愛」に芽吹いた、新たな生命体なのだ。それが今、どんどん分裂して、個の自由という段階にまで達しているのである。