リスペクト:畏敬の行とは

RESPECT poster, Birmingham Sparkbrook and Small Heath

ルドルフ・シュタイナー著『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本の中で、最初に出てくるのが「畏敬の行」である。

畏敬、敬愛、尊敬、親愛。いわゆるリスペクトをまずは意識的に持つことで、自分の中に消えていた愛のエネルギーがよみがえり始める。

現代人は、批判と否定を主として生きている。この否定と批判の時代の中で、自分を勇気づけ、力づけてくれる人や情報、本、仕事、作品。共感できるなにか、憧れを感じる何か。まずは、その感情を、意識的に求めることが重要なのだ。

嫌なことや不愉快なことにも良いことを見つけ出せ、などと難しいことを要求しているわけではない。自分にフィットする、ポジティブな情報が絶対にあるはずだと信じて、情報を集めよと言ってのである。

まずは、自分が成功したい、幸せになりたい、愛と自由と豊かさを得たいと思ったのなら、自分の中に愛のエネルギーを高めることから始めなければならない。愛のエネルギーを高めるには、人から愛をもらうことだ。でも、それは一巡りした最後にやってくる果実のようなもので、最初から誰も愛してくれないからと言って文句ばかり言ってても、状況は何も変わらない。

自分から人に愛を与えることが、最初のリングの始まりになる。

そのために、一番入りやすく、シンプルでパワフルなのがこの、「畏敬の行」なのである。

例えば、自分の好きな作品、好きな人、好きな何かを見つける。そしてそれを生み出した人をリスペクトする。リスペクトとはどういうことかといえば、とっても簡単だ。「自分もあの人みたいになってみたい」「あの人が大好きだ」「あの作品が大好きだ」という何かを見つけることだ。

この畏敬の行は、純粋な受け身の行だ。あくまで、自分の中の愛の萌芽を育てるために行っているということを意識していないと、愛のエネルギーに慣れていない人は、このエネルギーをすぐに外化してしまう。行動化してしまう。

たとえば、好きなアーティストがいたとする。彼(彼女)の音楽を聴き、その歌やメロディ、また彼(彼女)の美しい姿に強く惹かれ、敬愛を感じる。自分もあんなふうになってみたい。光り輝く自分になりたい、と思う。その憧れ、惹かれ、愛を感じる気持ちを大切に育てるのである。

最初はこのような尊重と敬意を自分には向けられないかも知れない。「自分は惨めで、あの人はすばらしい」という劣等感にすぐ置き換わってしまうだろう。高じると、熱狂的な崇拝者か、ストーカーになってしまう。

畏敬の行と連動して、このような劣等感、嫉妬、さらには依存のようなネガティブな感情を、一つ一つ解放しなくてはならない。

劣等感があると、畏敬の念に抵抗するかのように、自分を攻撃し始める。ポジティブに作用すれば、自分をより高めるための良い刺激にもなり得る。しかし、ネガティブに作用すると自分をますます否定することになってしまう。

すると、その畏敬の対象に縋り、助けて欲しいと思ってしまう。これが依存になる。「救い」ではなく「掬い」を求めてしまう。宗教化してしまう。自分の内的な神と出会い、愛するという、大いなる目的から遠ざかることになってしまう。

自分を愛すること。それが何より、自分の内なる神の覚醒には不可欠な要素なのである。なぜなら、内なる神とは自分自身の神性、ハイヤーセルフ(上位の自分自身)だからだ。自分を否定している間は目覚めることはできない。畏敬の行は、自分を愛するために、まずは他人を愛することから入る最初のレッスンなのである。

自分を愛することは、地球の人々にとってそれほど簡単なことではないのだ。

多くの人は、自分をニュートラルに愛せない。自分が自分を愛しているかを知りたければ、自分の声を録音し、顔を鏡に映し、姿をビデオに録画してみればよい。その声を、なんの抵抗もなく聞けるかどうか試せばすぐに分かる。

自分の顔を鏡で見て、なんの抵抗もなく見れるかどうか。自分のリアルな姿をムービーで見て、抵抗無く眺めていられるかどうかか。自分の名前を好ましく思えるかどうか。それですぐにわかる。ほとんどの人は、自分を直視できない。恥の違和感を感じる。

外面ですらそうなのだ。まして、自分の内面を直視できるだろうか。

残念ながら、ほとんどの人はできない。自我によって守られているから生きていけるが、もし自我の守りなく、いきなり自分の内面と直面したら、恥ずかしさのあまり生きていけなくなってしまうだろう。

赤面症とか、身体コンプレックス、体臭コンプレックスなどで引きこもりになる人は、自我が弱って自分の内面に防御なく直面したことで、生きていくことが困難なほど激しい罪悪感と劣等感を感じている状態なのだ。だから、他人が「あなたは異常じゃない」「あなたは変じゃない」といくら説得しても無駄なのである。彼らは、自分の内面に許し難い醜さを見て、それを外見に映し出して見ているのだ。

このような内面の醜さは、症状を見せる人だけではなく、すべての人がもっている。ただ、自我が隠してくれているから、普段は気にならないだけだ。自分と直面しているという意味では、悩みや苦しみを抱えている人の方が、むしろ真摯だと言える。こういう状態で苦しんでいる人に、いくら「自分を愛しなさい」と励ましたところで、なんの役にも立たない。

しかし、リスペクト:畏敬の行はこのような人たちにも有効なのである。荒廃した自分の内界に、他人を媒介にして、愛のエネルギーを注ぎ込むこと。そこから内的成長の最初の一歩が始まるのである。

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