自由の歴史1:自由がなく愛だけの時代

Heron's Eolipile

「愛」と「自由」は、人類史や宇宙史の変化に伴い、どのように変わってきたのだろうか。

これは大昔。まだ人間が文字や、合理的な思考を持たなかった時代の話だ。

肉体は持っているが、意識は半分半分、物理次元と神霊次元をいったりきたりしているような感じの人間だ。彼らは、宗教や教義など何も知らなくても、自分たちは神の一部であることを感覚としてわかっていた。

もともと、霊魂は自分が神の一部だってことを知っている。物質が、みな分子や原子で成り立っているのと同じように、霊も魂も、神の一部だってことは自明な人々だ。分かりきった話で、いちいち意識もしない。

だが、当たり前すぎて、逆に神を体験できない。神と一体である状態が、通常なのだ。

そういう人々は、常に「愛」を感じている。神は「愛」のエネルギーでできていて、そのエネルギーを使って創造する。人々も、神の「愛」のエネルギーによって生み出され、存在している。心霊的な次元をわかっている魂は、そのこともよく知っていて、常に「愛」に包み込まれている自分を感じている。

彼らには、個という意識よりも、神という全体の意識を生きているから、一人一人が個別の魂とは思っていない。だから、死も特別なこととは思わない。ただ古い肉体を捨てて、神とより一体になるだけだ。そして新たな肉体に再度宿る。モデルチェンジみたいなものだ。そういう感覚で生きている人にとっては、すべてが「愛」なのである。

「愛」は当たり前のことなのだ。

でも、そこでは「自由」はない。神としては自由だ。自分は神の一部、神全体としては何でもできる。だから、個として感じる必要がない。満足しきっているし、何も問題がない。何が起こっても、常に幸福だ。物理次元を幻だと感じているから、そこで起こることはちょうどテレビや演劇を見るようなものである。

自分もそこで演じながら、観客としても眺めている。生も死も、登場人物の生と死にすぎない。だから、物語の筋として、残酷な死に方をしようと、自殺しようと、それを見て楽しんでるから、平気なのだ。昔、人身御供とか、処刑とか、残酷なことが行われたが、彼らにしてみれば、それは「遊び」みたいなものなのだ。

理解しにくいかもしれないが、例えば現代人がテレビドラマや映画で、殺人事件を平気で見ているのと、感覚的には同じなのである。この現実が、物語の舞台なのだ。だから、昔の歴史はみんなドラマティックなのである。

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