愛の第三段階、フィリアとは「友愛」だ。もちろん、友愛と一言で言っても、様々な段階があり、レベルがあり、広さがある。
ところで、ここで補足をしておきたいのが、愛のゼロ段階のことだ。エロス、ストルゲよりもさらなる前提、中心核に位置する愛のゼロ段階こそ、「セルフ」だ。つまり、自己愛だ。
セルフとは、自分自身に対する愛だ。セルフはエゴに対する愛だけではない。利己愛ではない。利己愛とは、「他人がどうなっても、自分さえよければかまわない」という欲求であり、厳密には愛ではなく、恐れや不安の投影に過ぎない。
セルフ・自己愛とは、要するに内なる神への愛だ。自分自身の中にも、内なる神が宿り、それが自分自身を三次元に生かしている。そして、何らかの体験を求めて、人生を今も創造し続けている。その存在、そしてその存在によって作り出され、生かされている自分自身に対する愛が、自己愛であるセルフなのだ。
セルフは愛の一次元であり、点の愛だ。
エロスは愛の二次元であり、男性と女性、陰と陽という二極の結合によって引き起こされる愛だ。
ストルゲは愛の三次元であり、親子、兄弟姉妹、親戚、血縁関係といった木の根のような立体的な構造で表現される、血と遺伝子の系統の内部で働く愛だ。
さて愛の三段階のフィリアは、愛の四次元だ。
これまでの愛と同様、フィリアもエロスやストルゲを無視して到達することは出来ない。君たちの世界で、フィリアを実現しているように見える人の多くは、個人や身内を犠牲にして、社会や顧客、国家、会社、チームなどのために身を粉にして働く人というイメージがある。政治家、官僚、経営者、それから芸能人やスポーツ選手、芸術家などがそう。さらには教育者や宗教者、作家なども、このフィリアの愛から、さらにアガペの入り口にまで達しようとする人もいる。
そういった人たちを見てみると、二つに分かれる。一方では夫婦仲もよく、家族にも応援されながら、社会的にも経済的にも成功している人。もう一方では社会的経済的な成功の裏で、結婚生活も、家族ともうまくいっていない人だ。
うまくいってないひとは、残念ながらフィリアという愛のエネルギーに、不安や恐れから来る欲求を混在させてしまっている。エロスやストルゲを軽視したり、無視したり、うまくいかない反動でフィリアを実現させようとし、結果フィリアのガス欠を起こした人だ。
ここでもストルゲと同じように、エロスやストルゲから愛のエネルギーを得ている人は、愛のエネルギーの枯渇がないから、さらに溢れ出た愛が多くの人々にまで拡大する。そういうとき、フィリアのエネルギーには無理がない。
ところが、エロスやストルゲが満たされていないのに、フィリアに偏ってしまうと、愛の源泉が枯渇し、やがては無理が出てくる。そして恐れや不安を愛と勘違いし、人々を幸せにするという名目の元で、自己犠牲を自分に強いてしまう。これではセルフそのものも満たされないから、どこかで破綻したり、乗り上げたり、病気になってしまうのだ。
エロスやストルゲの価値と意味と重要性を知り、夫婦や家族関係を愛の源泉にすることが出来て初めて、自然な流れでフィリアへと向かうことが出来るようになるのである。