観念を分析してみる

Spinach-Tofu

では先程の喩えに引き続き、「ほうれん草が嫌いで食べられない」という人を例にあげて、観念における定義の書き換えについて具体的に考えてみよう。

ほうれん草が嫌いで食べられない人が、あるときそんな自分を変えたいと思ったとしよう。その理由はなんでもいい。ほうれん草ごときが食べられない自分が気に入らないのかもしれない。ほうれん草とベーコンのパスタがどうしても食べてみたくなったのかもしれない。あるいは、子どもに「お父さんほうれん草嫌いなんだ。子どもみたい」とバカにされたからかもしれない。

何かの理由があって、「ほうれん草嫌いを克服したい」と思ったとする。そこで、何とかして口に入れようとするのだけれど、どうしても嫌悪感が克服できない。無理やり口に入れると、吐き気がする。飲み込んでもちっとも美味くない。やはり、こんなもの食べれない、と思う。

無理やり治そうと思っても、心の内側が変わらなければ、克服するのは至難である。凄まじい苦行を味わうことになるだろう。もっと楽にやる方法がある。定義を変えればいいのだ。

自分の中に「ほうれん草は不味い」という定義があることに、すぐに気づく。なるほど、これが原因なのだ、とわかる。ところが、この観念が分かっても、相変わらずほうれん草が食べられない。嫌悪感が変わらない。なぜか。

バシャールは、「観念の構造全てを明らかにするまで、ネガティブな感情は消えない」という。ということは、まだ明らかにしていない観念があるということだとわかる。
 
そこで、どうして自分は「ほうれん草が嫌い」なのか、自分の中の観念の構造を探ってみることにする。探し方は、自分自身に問いかけるところから始まる。

「私は、どうしてほうれん草を見ただけで、気分が悪くなるくらい嫌な気分がするのだろう? どんな観念があるのだろう?」

そこで思考を、意識的に使う。移ろいやすい思考をひとつの方向に手懐けて、考えを深めてみる。「どうしてかな」「なんでかな」と考え続けてみる。まずは、ほうれん草にまつわる記憶を当たってみる。ほうれん草という客観的情報に、思考と感情がくっついたまま、観念の堆積層に埋まり、水質を汚染し続けている定義があるのだ。

そこにつながるのは、記憶である。思いでである。それが糸のように結びついている。心理学では、これを連想法という。ほうれん草から思いつくことを、どんどん連想しながら、記憶を掘り下げていくのである。

そこで、忘れていた景色をふと思い出したとしよう。たとえば、父親と二人きりの食卓で、ほうれん草の入った味噌汁をすすっている情景だったとしよう。はて、この情景はいつのだろう?

そこで、さらに記憶が蘇ってくる。そうだ、確か小学生の時だ。母親が急に病気になって、入院したのだ。家には母親がいない。そこで、父親が慣れないながら食事の準備をしたのだ。父は料理をしたことがないので、ご飯を炊き、味噌汁を作るくらいしかできなかった。たまたま残っていたほうれん草を味噌汁にしたのだった。でも、父親は出汁を入れることも知らなかったので、ほうれん草の味噌汁はひどい味だった。味噌は入れ過ぎで、ほうれん草は煮えすぎて、気持ちの悪い茶色に変色していた。仕方なく彼はそれを口にしたが、あまりの不味さに吐きそうになった。

そうか! あのときからほうれん草が嫌いになったのか。

本当はあのとき、もうこんな不味いものは食べられない、と言いたかった。でも、母親が入院して、料理のできない父親が頑張って作ったのだ。そんなことを言ったら、父がかわいそうだ。だから、我慢して不味いのを飲み込むように、全部食べたのだった。

「父の作った食べ物は全部無理してでも食べなくてはならない」という観念に、突如彼は気づく。さらに、ほうれん草は「母親の突然の不在による強い不安」と一体化し、「ほうれん草は母親の不在を示す」という観念を創りだしたことにも気づく。

最悪の味と、最悪の見た目のほうれん草の味噌汁を、飲み込まなければならなかった過去の記憶によって、自分はなんの罪もないほうれん草に、恐れや不安、遠慮、我慢といった多くのネガティブな感情を付随させ、「ほうれん草は自分にとって、たいへん不愉快なたべものである」という定義を創りだしたことに気づく。

ほうれん草は、自分自身の不安と、父親に対するネガティブな感情と結びついていたのだ。

これら、観念の構造すべてが明かされた結果、彼は次にほうれん草を見たとき、再度嫌悪感が出てくるけれども、「これは、過去の思い出が創りだした、不適切な定義から生じている感情なんだ」とすぐに理解できる。すると、この嫌悪感はたちどころに収束してしまう。そして、以降二度と再び再現することはなくなるのである。

このようにして、彼にとっての現実は変化する。ほうれん草は彼にとって、不愉快で見たくもなかったのが、ただのほうれん草に変化する。そこで、今度はほうれん草に関わる、良い経験を積んでいくと、逆にほうれん草は彼にとって好きな野菜へと変化していく。現実は、一つ豊かさを取り戻していく。彼は、かつてレストランで決してオーダーしなかった、ほうれん草のパスタを今はオーダーできるようになる。マンガのポパイだって、見るだけで気分が悪かったのに、すっかり平気だ。

もし、一度観念を洗ってみて、全部解き明かしたと思っても、まだネガティブな感情が消えない場合は、他にもまだ気づいていない観念があることを示しているので、別の切り口から探してみる。父親に関するネガティブな観念が残っていたとしたら、そこを分析する必要があるかもしれない。母親の死を恐れる気持ちがあるとしたら、そこを当たる必要があるかもしれない。

このようにして、ネガティブな感情が生じなくなるまで、観念の分析を続けていけば、必ず全貌を解き明かすことができる。これを、多くのネガティブな感情に適応させていくことで、人生の中からネガティブな感情、ネガティブな思考が激減していく。

分析、というと難しいことのように思えるが、要は自分の考えの根拠、いきさつに気づけばいいのだ。

しかし、これだけでは、単に自分の中が変わっただけで、外が変わるわけではないではないか?と思うかもしれない。心の中が変わるだけで、どうして現実まで変わると言えるのだろうか。

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