ほうれん草に嫌な感情を抱く人は「まずい」という定義を持っているから

Underwater Experiment

「海」を例えにして、もう一度思考現実化プロセスについてまとめてみよう。

私たちが通常、「思考」と理解している「思ったり考えたり」している思考内容は海水のようなものである。海水は常に変化する。水温も違うし、流れも違う。水質も違うし、透明度も違う。思考も同じである。さっきまで暖かかったのに急に冷たくなったり、最初は落ち着いていたのに突然激しく流れだしたりする。透き通っている時もあれば、濁って見通せない時もある。鮮やかなブルーの時もあれば、どんよりしたグレーの時もある。

思考とは常に変化しているものなのだ。

このような流動的な思考すべてを、意識的な制御のもとに置くことは不可能である。我々は表層のごく一部の思考を制御できる程度で、ほとんどの部分を自然現象のように受け入れるしかない。ところが、多くの成功法則や、スピリチュアルな願望実現法は、このように流動的でとらえどころのない思考を、自分の意思によって、適切に変化させなさいという。

一見簡単そうに見えるので、皆安易に始めるが、ほとんどが成果が出ないで終わってしまうのは、思考を直接、意識的に制御することは不可能だということに、気づいていないからだ。

さて、このような「思考」の海水に住んでいるのが、「感情」という名の生物である。 

感情は、水生生物のようなものである。魚類、哺乳類、甲殻類、軟体動物、微生物までさまざまな生物が、海水には存在しているが、生息している生物は海水の環境によってまちまちだ。温かで透明な海には鮮やかな色彩の熱帯魚が住むが、深い暗闇の海には目のない不気味な深海魚が住む。サメやシャチのような恐ろしい生物が住む海域もあれば、イルカやカメのような楽しげな生物が泳ぐ海流もある。

生物たちは、海水の質に応じて、生息域を変える。同じように、我々の感情も、思考の水質に応じて、生息域を変えるのである。温かな思考には、温かな感情たちが住みつく。冷たい思考には、冷たい感情たちが住み着く。

感情は、外界の変化に応じて、反射的に生じていると感じている。嫌なものを見、嫌なことをされ、嫌な匂いを嗅ぎ、嫌なことを言われた。だから「嫌だ」という感情が生じていると思っている。ところが、不思議なことに、同じものを見ても、皆が同じ反応をするわけではない。

ほうれん草を見て、あるものは嫌な顔をし、あるものは何も反応せず、あるものはうれしそうな顔をする。嫌な顔をした人はほうれん草の味が嫌いだからだ。うれしそうな顔をした人は、ほうれん草の胡麻和えが好きだからだ。何も反応しない人は、特にほうれん草が好きでも嫌いでもないからだ。

ほうれん草に感情が生じるのは、我々の中にそれぞれ関連する思考があるからだ。それは限りなく記憶に似ている。ここでいう記憶とは、経験された客観的事実に、主観的な思考と感情がくっついたものである。ほうれん草の記憶とは、ほうれん草を食べたという客観的な事実に、「うまかった」「まずかった」という快や不快の感情と、「ほうれん草はすべてうまい」「ほうれん草はすべてまずい」という主観的な思考内容がくっついたものである。

このような経験から導きだれた個人的な記憶の集積を、バシャールは「観念」(あるいは「信念」)と呼び、その内容を「定義」と呼ぶ。ほうれん草の良い感情を抱く人は、観念の中に「ほうれんそうはうまい」という定義を持っているからである。ほうれん草に嫌な感情を抱く人は、観念の中に「ほうれんそうはまずい」という定義を持っているからである。

ほうれん草という野菜そのものは、良いも悪いもなく、美味いも不味いもない。畑で取れる、緑色の、栄養価の高い野菜に過ぎない。味噌汁や、和え物や、炒め物に使われる食材の一つに過ぎない。このような客観的な事実以上の定義がなければ、ほうれん草を見ても特になんの感情も生じない。もしスーパーでほうれん草を見たとき、「緑が綺麗だな」と出て来たらそれは、ほうれん草の緑色とはこうだという定義があるからだ。「安い」「高い」出てきたら、「ほうれん草はこの程度の値段である」という定義があるからだ。

まったく定義がなければ、感情はそもそも湧いてこない。湧いてこなければ、その人にとってはないも同然である。

我々は日々、客観的な事実に、思考と感情をくっつけ続けている。これを「体験」と呼ぶ。我々は体験を通じて、客観的な事実に、思考と感情で色付けをし、定義を生産しては、意識の海底に莫大な観念の堆積層を創り出している。体験された現実に、思考と感情がくっつき、産まれた定義の塊が、沈殿して観念という地層を作り、海底に広がっているのである。この地層が、思考の水質を決め、そこに住む感情の生態系を大きく変え、それが我々の現実としてフィードバックするのである。

では、成功や願望実現のため、思考を変えなくてはならないとして、思考を直接制御できないのであれば、どうすればいいのか。

思考を生み出している「定義」を変えてしまえばいいのだ。

確かに「定義」は観念という、通常意識しない思考の底にある。しかし、定義はすべて過去に作られ、固定されている。流動的で移ろいやすい思考とは正反対に、固定しており変化しない。

我々はもろもろの心理学的な学説や、定説から「意識の底を変化させるのは容易でない」と考えている。しかし、実は表層的な思考よりも、思考の底に沈殿した観念は、変化せず、そこにあり続けているから 一度意識してしまえば簡単に取り除いたり、上書きできるのだと、バシャールは指摘したのである。

ここが、極めて重要なポイントだ。

本田健も、「観念は変え難いのでは」という質問を投げかけた際、それこそネガティブな観念に支配されている証左だとバシャールに指摘され「やられたな(笑)」と苦笑している。ここでバシャールは、コツさえ掴めば、自分がどんな定義を持っているか、簡単にわかると示唆したのである。

海底の堆積層を分析し、自分の好ましい方向へ組成を変化させることで、海水である思考の水質が好ましく変化し、水生生物である感情の生態系も好ましく変化する。これによって、現実が仮に変化していなかったとしても、現実の味わい方、体験が全く変わってくる。

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