西洋の教育学は、子供の中に獣性しか見なかった。だから、自由を抑圧し、手枷足枷を付けないと、文明人にはなれないと思いこんだ。本質的に、狼少女に対するのと同じなのである。一時期、流行した管理教育と同じ思想に基づく教育方法だ。自由を奪い、権威によって制御すること。教育帝国主義がまかり通っていた。
これによって、確かに子供たちの学力は伸び、優秀な生徒が増えたが、子供たちは自由を抑圧され、反発した。自殺、不登校、不良化が増加し、子供たちは夢や理想よりも、いかに現実に適応し、金儲けするかを考えるようになった。競争が激化し、弱者は淘汰された。
このような管理教育と、偏差値主導の教育に対するアンチテーゼがゆとり教育だ。これは、逆に子供の獣性を否定し、天使性だけを見ようとしたんだ。子供は本来神であり、天使のような無垢な存在であり、放置しておいたってちゃんとうまく育つ。だから、できるだけ、生のままで育て、余計な汚れを付けない方がいい、という発想だね。これは教育リベラリズムだ。
これによって、子供たちは自由を享受し、好きなことを追い求めるチャンスを得た。しかし、セルフコントロールする方法を学ばず、学力は急速に落ちた。自由を勝手気ままと解釈し、労働や体験に対してモチベーションが低下したままフリーターやニートとなるものが増えてしまった。自己実現どころか、社会貢献すら出来ない若者が増えた。
結局、両方ともうまくいかなかったのは、周知の通りだ。いずれも、バランスが欠けているし、肝心な根拠が不安定だ。
教育帝国主義は、子供の神性を否定している。教育リベラリズムは、子供の神性ではなく、自我の純粋さを根拠にしようとした。当然ながら、どちらもうまくいくはずがない。
子供の神性を否定すれば、愛のエネルギーがマイナス反転する。不安と恐れのエネルギーが、子供に注がれる。強い子供たちの神性は、そのネガティブなエネルギーに強く反発する。愛と自由を強く求めるが故に、社会に反発するしかなくなる。
子供の神性を予感しつつも、目に見えない存在を否定する限り、根拠は「心」すなわち、自我に基づかざるを得ない。しかし、子供の自我はそれこそ未成熟故に、獣性をたっぷりと持っている。だから、残酷だし、野蛮だし、暴力的だし、わがままだ。そういう側面を無視して、子供の純粋さをたたえても、それは事実に基づいていない。だから、子供たちの獣性が暴走する。
子供は心がきれいなのではない。子供は自我が未成熟だからこそ、ときに奥深い神性が、大人よりもずっと鮮明に外に出る場合が多いというだけなのである。
子供の神性を全面的に認めつつ、獣性をたっぷり持った未成熟な個体と、いかに調和させるか。そのために、必要な時期に必要な情報と、必要な経験と、必要な栄養を与えること。これが、真の教育なのである。
だから、子供が自分の自我をきちんと制御出来もしないのに、神性を重視して最初から自由に任せても、自我が制御できずに神性と葛藤を起こし、うまくいかない。だからといって、神性を無視して、自我を権威で縛り付けても、神性が反発して、やっぱりうまくいかない。
内なる神のまったき意識である一人一人の神性は、子供たち一人一人の個性をよく知っている。その神性を何より尊重することである。だからといって、子供の自我はまだ未成熟だ。だから、未成熟な子供のいいなりになるってことではない。
挨拶を教え、礼儀を教え、我がままを諫め、無謀さを戒めることは、絶対に必要だ。それがなければ、単なる獣だ。そういう子供が多いのは、親が最低限、教えるべきことを教えていないからだ。
そして与えること。愛を欲しがっているときには、抱きしめてあげる。頭をなでてあげる。これは神性の求めだ。上手に出来たら褒めてあげる。かわいいと思ったら褒めてあげる。
そうやって子供の求めに応じて、愛を注いでやれば、必ず自分の力を伸ばしていくのである。