「あなたのためを思って」「子供のことを思わない親などいない」など、親の常套的な文句があるが、そのほとんどが、子供のことを思っていると勘違いして、自分の不安や恐れに基づく、自分の信念や定義を子どもに押しつけている。親もそのことに気付いていないからやっかいだ。子供も最初は愛だと思うが、それにしてはなにか変だと思い始める。
なぜ愛なのに自由を見る見る奪われるのだろうか、と感じ始めるのである。
自由を束縛する行為は、愛ではない。偽物の愛だ。なぜならそれは、子供の神性を信頼していないことを示しているからである。自分の力で、子供のすべてをコントロールしなくてはいけないと思いこんでいるのだ。
子供の中にも、内なる神はいる。子供は新しい存在だが、内なる神もそうだとは限らない。そのことを信じられるかどうかによって、愛の子育てになるか、不安や恐れの子育てになるかが決まる。
当然ながら、内なる神は、例え子供の中にいて、まだ存分に働いてはいないにせよ、神は神だ。人間を越えた叡智と経験のすべてにつながっている。そして、個々の個性に応じた体験を求めて、この三次元の世界に生まれ出てきている。
成長とは、子供の自我が育つことであり、同時に内なる神がより自由に、三次元を体験できるようになることだ。そう考えると、一人一人が、最初から、そのために必要な素質をすべて持ち合わせて生まれていると信じることができる。小さなどんぐりが、巨木にすらなり得る遺伝情報を持っているのと同じさ。だからといって、すべてのどんぐりが、巨木になるわけじゃないよ。そのために、必要な環境と、必要な養分と、必要な日照と必要な水を与えることで、はじめてそのような巨木が育つ。
子育てとは、そのような内なる神の要請に従って、親が必要なものを必要なときに、子供に与えると言うことだ。それは、決して難しいことではない。子供がちゃんとそれを親に伝えてくる。子供の成長に心を配っている親なら、造作なくそのシグナルをキャッチできる。そしてそれを与えてあげればいいのだ。子育てとは、教育とは、たったそれだけのことなのである。
逆に、中途半端に学んだ人が陥る誤りが、子供を無垢な天使のように思い込むことだ。これも良くない。
それはあくまで、子供の「内なる神」の話であって、子供自身は体も心も未成熟であり、「内なる神」との落差が大きい。純粋だからこそ、子供は時に天使のようであり、時に獣のようでもある。子供の中に、天使の側面だけを見て、獣の側面を見落とすと、あとで手痛いしっぺ返しを食らうことになる。
天使性と獣性をあわせ持つアンビバレントな子どもという大きな可能性の塊の中で、強く芽吹いている魂の神性をどれほど感じていられるか。彼らの発する無言のメッセージを、親自身の変革を求める言葉と受け止めれるかどうか。
親が子どもを自分の思い通りに育てることが子育てなのではない。親が子どもの要請にいかに答え、自分自身を成長させうるか否かが子育ての本質なのである。
子どもは容赦なく親を変革させる力を秘めている。