愛と欲求を混同している

Queen of the NIght

かつて親は、自分が出来なかった夢を子供に押しつけたり、逆に自分が苦しかったことを子供にさせないようとしたり、子供に対して「よかれ」と思いながら、子供の都合ではなく、親の都合を押しつけ、それが親の子に対する愛だと思っていた。

ところが、そういう親の都合の押しつけに懲りた次の世代は、子供に何も押しつけず、自由にさせてあげることが子供の幸せと考えた。ところが、自由を放任と勘違いして、必要なことまでも与えない親が増え、自己制御できなかったり、自我の確立が出来ず、社会生活がうまく送れない子供たちが増えた。

子育てを十分に行い、親子関係を幸福にしようと思ったら、夫婦のエロスが不可欠だ。もちろんそれが前提だが、実際にすぐそれが解決する夫婦は、まだまだ少ない。性の問題は、変えようと思ってさっと変えることが難しい。意識的に変えようと思っても、なかなかうまくいかない。時間がかかる。

そういう中で、とりあえず今の現状の中で、幸福な方向の親子の愛を実現させるためにはどうすればいいのだろうか。

これは、夫婦だろうと親子だろうと同じだ。幸せな親子関係を作りたかったら、幸せは愛から来るポジティブなエネルギーを必要とする。愛とは結局信頼のことだ。夫婦が互いを信頼できなければ、愛はすぐに不安や恐れに転じる。親子においても、心配や恐れを手放し、信頼で生きることがなんとしても必要だ。

では、親が子供を信頼するとはどういうことか。

親は子供のことを、いちいち心配しないことだ。

本来、心配とは文字通り「心を配る」「心配り」のことだった。心配りとは、神経を細やかにして、相手が必要としているものを、必要としているとき、必要としているだけ与えようとする態度と行動のことである。ハリー・ポッターに対するダンブルドア校長の態度が、まさにそれだ。常に彼の成長と、必要に応じて、全面的なサポートを日向から日陰から与えている。

ところが、現代日本人にとって心配とは「不安」「恐れ」と同義語になってしまった。

「子育てがうまくいかなかったらどうしよう」「死んでしまったらどうしよう」「傷ついてしまったらどうしよう」「病気になってしまったらどうしよう」「生活できなかったらどうしよう」「卒業できなかったらどうしよう」「不良になったらどうしよう」「偏差値が下がったらどうしよう」「受験に失敗したらどうしよう」「怒ったらどうしよう」「泣いたらどうしよう」「事故したらどうしよう」「不純異性交遊してたらどうしよう」「援助交際してたらどうしよう」「万引きしてたらどうしよう」「犯罪者になったらどうしよう」「いじめにあったらどうしよう」などなどなどなど。

「どうしよう」「どうしよう」と、なりもしないのに、なるまえからずっと、あらゆるネガティブな可能性を心配する。ポジティブな可能性と言ったら、親の未達の願望ばかりである。子供とはなんの関係もないことなのに、まるで自分の夢を代わりに実現してくれるのが子供だと勘違いして、それが愛情だと思い込み、期待を押しつける。

あるいは、そんなふうに期待された重荷の経験から、リバウンド的に、子供になんの期待もせず、最初から無視を決め込んだり、無関心、無感動のままの親もいる。子供がどうなろうが、何を必要としようが、自分は関係ない、という態度だ。はたまた、子供はすべて自分の力で何とかすればいいのだと、親がなんの干渉もしないで放置し、それが自然で自由だと勘違いしている親もいる。

多くの子育てがうまくいかないのは、愛と心配、愛と欲求を混同しているからだ。つまり、愛だと思っているのは実は愛でも何でもなく、単なる親のエゴだ。そうやって、愛という名のエゴを押しつけられた子供たちは、例外なく反発し、反抗する。その出方が外向きだと暴力や反抗的な態度、不服従、家出など、親から強引に逃れようとする。その出方が内向きだと、部屋に引きこもったり、不登校になったり、無気力になったり、自殺してしまったりする。

いずれも、「親の愛」という名のもとに正当化されたエゴに対する、全面的な抵抗なのである。

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