愛は無限に循環する

The stone cross on the hill

自己犠牲と思っているのが自分であれ他人であれ、どう定義付け、どう捉えているかによって、いくらでも変わりうることを示している。

たとえば、イエスは神に命令されて、苦しみながらも、人類のために愛と勇気を奮って磔刑に耐え、自己犠牲によって多くの人々を救ったと考える。これはネガティブな自己犠牲の見方だ。

ところが、イエスからすれば、天からものすごく大きなエネルギーを与えられていたからこそ、クリアできたわけで、本人は実は肉体の苦痛や恥の気持ちを上回る、神の悦楽を体験していたのかもしれない。つまり、イエスは究極の自己満足のためにやったのかもしれないのだ。それが、結果として、人々の救済につながった。

愛は自己犠牲ではない、という言葉の定義は、愛は無限のエネルギーである、という定義を前提にしている。愛が有限のエネルギーだったら、自分の愛を犠牲にして、人に与えなくてはならない。ところが、愛は有限ではない。無限のエネルギーだ。愛=神なのだから当然である。神は無限大のエネルギーなのだ。

愛のエネルギーが無限に与えられるのなら、自分の愛を一時的に他人に与えたところで、自分の愛はなくなりはしない。なくなるどころか、与えた以上の愛が戻ってくる。これがエネルギーの循環であり、愛と豊かさの法則なのである。与えれば与えただけ、愛がより増えて戻ってくる。

もし、与えても戻ってこないなら、それは愛じゃないってことだ。エゴ、欲求を愛だと勘違いしている。母親が子どものために身体や生活を犠牲にしていると見るのは、それ以上の喜びや情熱といった愛のエネルギーの循環している様子が見えていないからだ。

エゴ、欲求、心配、ネガティブな感情も、愛の一部だ。でもそれは愛の高エネルギーを、恐れの低エネルギーに変化させてしまっている。だから、愛ではなく、恐れが循環してしまう。

愛を流すか、恐れを流すか。自己犠牲だと定義するか、自己満足だと定義するか。

何かをすることで、さらなる愛がめぐり、受け取っていけると信じ、行動するかどうか。何をするにしても、自分には何も与えられず、一方的に搾取されると信じ、行動するか。

結局、愛は自分次第で、恐れにも愛にも変化する。自己犠牲にも自己満足にも変化する。ヒヤヒヤにもワクワクにもなる。

愛は自己犠牲である、と定義付けている限り、愛ではなく恐れのエネルギーが循環する。だから、幸福より不幸の多い現実を創造してしまう。愛は自己満足である、とポジティブに定義付けたとき、愛のエネルギーが循環を始める。とってもシンプルで簡単だ。

ものごとをややこしくすればするほど、エネルギーは淀み、循環を止める。軽やかで、シンプルであればあるほど、高いエネルギーが高速で回り始める。この感覚を、愛でも豊かさでも、マスターすれば多くの望みを簡単に実現することができる。

イエスの十字架は、これまで自己犠牲の象徴だった。

これからは十字架にかかることすらワクワクになりうる、無限の愛のエネルギーの象徴に変わる。そうなることで、愛は無限に循環し、増え続けていく。自分に与えられた愛を、人に流せばいい。簡単で、誰でもできることだ。そうやってエネルギーをいつも循環させるのである。

そして、どんなことにも恐れではなく、愛の定義付けをしていく。

「なくなったらどうしよう」ではなく「もっともっと流せば、もっともっとやってくる」という定義に変えてしまうのである。そこから、愛は自己犠牲であることをやめて、幸福の無限エネルギーとして振る舞い始めるだろう。

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