自己犠牲?自己満足?

I (heart) balancing rocks

愛について語る前に、自己犠牲の定義を明らかにしておく必要がある。

自己犠牲って、そもそもどういう事だと思っているだろうか、

例えば「人のためになるのなら、自分の望みや意図とは違うことでも、自分を捨ててやること。受け入れること」と定義しているとしよう。

では、この自己犠牲と判断している視点は、どこにあるのだろうか。実際に事例を上げてみよう。あなたは「愛は自己犠牲」と聞いて、頭に浮かぶのはどんなシチュエーションだろうか。

たとえば、「赤ちゃんを育てるために、自分のやりたい事を我慢して、おっぱいをあげたり、おむつを変えたりしているお母さん」こそ、自己犠牲の典型である、と思っているとする。

その母親の子育てが自己犠牲だと思っているのは、誰だろうか。

視点とは、つまりその母親をみている他人か、母親本人か、ということだ

外から見て、「自己犠牲だ」と他人が勝手に判断するパターンと、自分自身が「これは自己犠牲だ」って思いながらやっているパターン、あとは両方だ。自分も他人も「自己犠牲」って思いながらやっている。

他人が、赤ちゃんを育てている母親を見て、「自己犠牲だ」って思ってるとしたら、それは彼女が本当にそう思っているかどうかに関係なく、自分の価値観を相手に投影している。「自分だったら、汚いおむつを変えるなんて嫌だろうなあ」「自分だったら、体系が崩れたらショックだろうな」「自分だったら、昼も夜もなくおっぱいを欲しがって泣かれた堪らないだろうな」。そんな大変なことを、それでもやっているってことは、自分を犠牲にしてでも、赤ちゃんを育てるために頑張っているんだろう。そう、想像しているわけだ。

ところが、実際はそのお母さんは、喜びでやってるかもしれない。確かにおむつ替えでは大変な思いをしているかもしれないし、以前の服が着られなくなって、授乳で寝不足かもしれない。でも、赤ちゃんの可愛い笑顔を見たり、抱っこしたり、あやしたり、そもそもこういう母親としての仕事をやり遂げることに、やり甲斐と喜びを見出しているのかもしれない。

旦那さんがサポートしてくれ、信頼で結び合っているおかげで、彼女は子育ての大変さを、喜びと感じているのかもしれない。すると、それは自己犠牲ではなく、自己満足だってことだ。

自己満足とは、「自分だけが勝手に満足している」という意味ではない。自己満足の定義が少しずれてる。自己満足という言葉を、ネガティブに定義付けているのだ。

自己満足とは「人の意見や思いなんて関係なく、自分さえ良ければいい」という価値観だと定義付けている。

しかし本来、自己満足という言葉は、良いも悪いもなく、至ってニュートラルな言葉のはずだ。いつから、このようなネガティブな言葉に定義付けられてしまったのだろうか。

このように、なんの理由もなく、提携文句みたいにネガティブに定義付けられている言葉が沢山ある。そのネガティブな言葉の定義が、そのままネガティブな思考の定義になってしまっている。たいして理由もなく。

さて、自己満足って言葉がネガティブに使われだした経緯はともかくとして、改めてこの言葉を適切に定義付けてみるとしたら、あなたならどうするだろうか。

「他者の目や世間体にかかわりなく、自分自身の中で感じている満足感、充足感のこと」。「人の目とか、世間や社会の価値観とは関係なく、自分自身の中で純粋に感じている満足感、充足感、ワクワクのこと」などであろうか。このように考えると、自己満足という言葉は、悪い言葉どころか、すごくいい言葉になる。

では自己犠牲は自己満足、って公式はどうなるだろうか。

良い意味にも悪い意味にもなるだろう。

悪い意味だと、自分が嫌なことを、何かのために我慢してやっているつもりが、実は自分だけの満足であって、人が実際に求めていることではなかったりする、ってことになる。

良い意味だと、自分が嫌なことを、何かのために我慢してやっているつもりが、実は世間とか人とか関係なく、自分がやりたい事だからやってるだけのことである。

良いか悪いかはないから、ポジティブかネガティブという言い方のほうが適切かもしれない。

では、最初の母親の事例はどうなるだろうか。

他人から見ると、ネガティブな意味でやってるように見えるけれど、実際本人はポジティブな意味のほうでやっているということである。

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