愛は自己犠牲という定義について

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パルファから最初に与えられた「愛は自己犠牲ではない」という定義。今改めてこの言葉を深めてみたいと思う。

「愛は自己犠牲ではない」と簡単に言うけれど、僕をはじめ地球上のすべての人々の中に、「愛は自己犠牲である」という強い信念が刻み込まれている。

この定義を最も象徴しているのが、キリスト教の十字架であり、イエスの磔刑だ。神の意図のもと、全人類の罪を背負って、聖者であるイエスが死罪となり、激しい苦痛に耐え、死を受け入れていく。まさに究極の自己犠牲だ。そして、これが愛だとされている。

メル・ギブソンの映画「パッション」は、イエスがユダの裏切りによって捉えられ、死罪を宣告され、目を背けんばかりの残虐さで痛めつけられ、死に、そして復活するまでを、イエスの味わった苦痛に焦点を絞って制作されている。

リアルと言うより、誇張された表現ではあるが、血まみれになるまで鞭打たれ、重い十字架を背負わされ、手と足に釘を打たれ、磔にされて息絶えるまでに、どれほどの苦痛と恥に耐えなくてはならないか、十二分に想像させてくれる。自分みたいな人間にはとても真似できないと、恥じ入るような気持ちが生まれる。

これが「愛」の究極なのだと。「愛とは凄まじいまでの自己犠牲なのだ」と、そう言われているような気がする。これが愛だというなら、愛とはなんという苦痛なのだろうかと思うだろう。

もともと仏教には愛という概念がない(慈悲ならある)。だから我々が愛と思っている概念は、仏教ではなくキリスト教から来ている。我々の中に流れ込んでいる、西欧の愛とは、十字架によって象徴されている。まさに「愛は自己犠牲である」という教義を示している。

しかし、それはキリスト教が作り出した定義と言うわけではない。自己犠牲の原型は、「生贄」「人身御供」だ。自分の望みにかかわりなく、神や自然、そして集団のために自分自身の命を差し出さねばならない。自分は嫌でも、掟のため、神のため、みんなのために命を捨てる。

自然は「生存本能」を与えている。自分が生き残ることを何よりも優先させるようプログラムされている。ところが、生贄、人柱といった自己犠牲は、強制であれ、自発的であれ、自分の命を自ら捨てて、自分以外のために役立とうとすることだ。これは、自然にはない行為だ。だからこそ、尊く、誰にでもできるものではない立派な行為だと思われた。

人身御供によって雨がふれば、皆が命を捨てて神に供された者に、最大限の感謝を捧げただろう。これこそ、「愛」だと考えた。

愛は自己犠牲によって示される。自分を犠牲にしないで、愛することなどできない。

しかし、私のハイヤーセルフは「愛は自己犠牲ではない」という。しかも「自己犠牲は自己満足だ」ともいう。もし、それが本当だとしたら、全人類が愛について間違った考え方を受け入れてしまっているとになる。

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