我々はすでに、心のなかで何を考えようと、何を信じようと、それが心のなかである限り自由であるとされている。
昔はそうではなかった。戦時中は、何を考えているか、何を語るかが、生死に直結した。しかし、敗戦後日本は自由国家になった。だから、自分の心のなかは誰にも制限されていない。どこに住もうと、誰と結婚しようと、どんな仕事をしようと、国から制限されることはない。
これほど自由を保証されている日本において、それではなぜ我々は、幸せを実感できないのだろうか。
それは、我々が願う個人的な自由には程遠いからである。パブリックな自由は必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。
現在、我々の自由を抑圧し、束縛するのは、国でもなければ政治でもなく、為政者でもなく、権力者でもない。幕府でもなく、官吏でもなく、警察でもない。法律ですらない。
お金である。
所有を制限し、体験を制限し、環境を制限し、人間関係を制限し、自分の人生を制限しているのはお金である。それは単に年収や資産を示すのではない。お金に対する信念や定義のことである。
この定義が人間を強く束縛し、それゆえ人間は自由を感じられないのである。しかも、それがお金という眼に見えない対象ゆえに、自分が不自由で束縛されていることすら気づかない。だから、このような自由を抑圧するお金の定義や信念が、自分の中にあるなど思いもしないし、疑いもしない。ただ、お金がなくて苦しい、という人生を体験するばかりなのである。