人間に自由などいかばかりもない

安彦良和の「アリオン」という物語の中で、アリオンは呪われた自分の運命に抵抗し、獅子王の前で自分の命を絶とうとする場面がある。獅子王は「やれるものならやってみろ」と挑発する。アリオンは自分の喉に剣を立てようとするが、へなへなとくずおれてしまう。獅子王は言う「人間に自由などいかばかりもない」と。

我々はたしかに社会としての自由は保証されている。しかし、自分の人生を、自分自ら、自分だけの意思で、自分のやりたいことを、やりたいように自由に選択しながら生きることが、どれだけ出来ているというのだろうか。

我々は自分がどうして言葉を話すようになったのか、記憶していない。物心ついたときには、言葉を話している。言葉を話しているということは、すでに思考の基礎が出来上がっているということである。単語と、それに付随する概念を、我々は自分の意志とは無関係に、知らない間に刷り込まれている。

ママ、パパという概念。一日という概念。朝と夜という概念。食べるという概念。寝るという概念。さらにそこには言語化されてすらいない、当然のごとく思われている数々の定義が、まるで真っ白な紙にコピーされるかのように、子供の中に急速にインプットされる。

我々は、自分の中の基礎的な概念を、選択することなく、半強制的に刷り込まれている。その基本的なベースをもとに、我々は体験を重ね、大きな思考の体系を個々に創り上げていく。

それを我々は定義といい、信念と呼び、観念とし、これらの信念体系が思考と感情を生み出し、これらの思考や感情にしたがって生きている。親や、社会が創り上げた汎用的なファームウェアが、我々がまだ子供のうちにフォーマットされ、それが我々の思考の中心を構成しているのである。

このような基本的な概念ベースを、我々は自由に選択していない。選択する能力を得る前に、インプリントは終了しているからである。

我々は、自分の思考は全て自分の意志であり、他人に左右などされていないと当然のごとく思っているが、そのベースとなっている基礎概念は全部他人から刷り込まれた過去の遺物に過ぎないものなのである。

はたして、これでも自分の考えは全て自由な選択の結果であると言えるのだろうか。

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