豊かになりたいなら、願うことを手放してしまうこと

Back Panel of Poor Clares Altar

豊かになりたいと願うなら、一番手っ取り早いのは、豊かさを願うことを手放してしまうことである。

とはいえ、他人のためにお金を稼ぐのでなければ、幸せにはなれないと言っているのではない。人を幸せにするのが真の人生の意味で、自分は豊かになることを求めてはいけないと言っているのでもない。

人を幸せにすることと、自分は幸せにはなってはいけないという考え方が、なぜ同じになるのだろうか。人を豊かにするという行動と、自分が豊かになってはいけないという思考を、なんの脈絡もなく混同してしまっている。これこそ、古い「清貧」という観念である。

ここで伝えているのは、「豊かさを願うことを手放す」という内容、そのままそれだけである。

これは昔から耳にたこができるほど言われ続けた、儒教的な呪縛ではない。これを呪縛と感じるのは、かつてこの智慧を説教してきた人たちが、真意を十分理解しないで伝えてきたからである。信者を恐れと不安で支配し、お金と時間を無償で差し出させてきたのが、古い宗教組織の形だとすれば、呪縛に聞こえるのは当然だ。

しかし、伝えられてきた内容そのものまで否定することはない。「執着をとれ」「我を去れ」「神にお任せせよ」「利他愛」などなど、多くの宗教的な思考内容は、過去から代々伝承されてきたものだ。だから、宗教は違えど、その教えを研究してみると、どれもこれもよく似ていることに気付く。

残念ながら、多くの価値ある人生訓も、解説者や取次ぎ者が愛と信頼ではなく、不安と恐れをベースにものを語る。だから、誤解される。その最たる犠牲者が豊かさ、なのである。宇宙は豊かさを一度たりとも否定していない。しかし、多くの宗教者は豊かさを鼓舞する一方で、個人の豊かさを否定してきた。

宇宙は反対のことを告げている。自らの豊かさを目的とせず、周囲の幸せのために愛を放つとき、宇宙の豊かさが循環し、無限に流れ込む。それを受け取り、味わうことで、たぐいまれな豊かさを味わいつつ、分かち合うことができるようになる、と語っている。

確かに、人々が不安や恐れと共に生きているうちは、大いなる豊かさ、多額のお金は危険だった。人に認められ、支配し、安全でありたいと願う人のところに富が集中するとどうなるか、歴史の中で無数の危険な実例を知っている。だからこそ、宗教は富を、豊かさを恐れさせ、そのような個人の富を、組織に吸収し、安全にみなのために使うことで、無害化したのだ。

個人にはまだ、豊かさを受け取るだけの器が足りなかった。なぜなら、自由ではなく、愛ではなかったからである。

無限の豊かさを受け取りながら、幸せに生きるためには、愛と自由で生きていることが不可欠の条件になる。そうでないと、この不安と恐れを中心になり立っている地球においては、たちどころに個人に集中した富が、不安と恐れの温床となり、大きな破壊を引き起こしてしまう。

内なる神との出会いは愛との出会いだ。

思考現実化プロセスの習得は自由の習得だ。

そしてエロス、ストルゲの愛がフィリアへと拡大していく。その結果、大きな豊かさが巡ってくる。

フィリアの愛とは、他者への愛であり、社会の愛であり、友愛だ。自分の才能を、他者の幸福のために使うことが、その人のワクワクとなり、充足した感謝の日々を作り出す。

その愛のエネルギーを、自由のもとで選択し、現実創造した個人のもとに、何倍もの豊かさエネルギーとなって戻ってくる。自分が発した、内なる神の源泉であるワクワクエネルギー、才能のエネルギーを、フィリアとして周囲に拡大したとき、その内なる神から発した愛のエネルギーが、個人の感謝を加えて何倍にも増え、豊かさとなり戻ってくる。

この循環により得られる豊かさエネルギーは愛と自由でできている。だから、不安や恐れを引き寄せない。

不安や恐れで豊かさや富、お金を求めている人のところには、決してやってこない流れである。不安や恐れで、愛と信頼の富を、弾いてしまうからだ。

だから、欲求を手放せと言うのである。

皮肉なことに、自分のために求めるのを手放せば手放すほどに、愛と自由による豊かさはやってきやすくなる。

人に認められるための豊かさを求める必要がないのであれば、自分が豊かになったことを吹聴する必要はない。人に見せつけるために、豪邸を建てたり、高級輸入車に乗ったり、ブランド物で着飾る必要はない。

人に認められ、うらやましがられることで、幸せを感じたいと願うのは、承認欲求以外のなにものでもない。周囲の人に認めてもらうことで、初めて自分の価値を感じられるといった段階にいることを示している。不安や恐れは結局、自分の首を絞めるだけになってしまう。

一度は体験してみないと、なかなか受け入れにくいかも知れない。それほど、高度資本主義社会が生み出した、成功という名の幻想は甘美で魅力的に見える。

愛の幻想、自由の幻想、豊かさの幻想。それを求めている限り、どこにも行き着かない。消費行動を促すための、広告的モチベーションを引き起こすだけだ。

たとえば、よくコマーシャルで流れる結婚式のイメージなど、典型的な事例である。実際の結婚生活とは全く無関係なのに、結婚と言えばあのようなロマンティックでドラマティックでおしゃれなものだと思い込ませ、魅力を感じさせ、目標にさせようとする。結婚式という通過儀礼が、いつのまにか結婚そのものの記号、象徴みたいになってしまう。

だから、結婚式が結婚の最も幸福な瞬間だと思い込み、後に続く真の結婚生活の醍醐味を味わえなくしてしまう。結婚に憧れれば憧れるほど、結婚が遠のく。なぜなら、この魅力的イメージは結婚ではなく、結婚の幻想に過ぎないからだ。

高級輸入車に乗って、豪邸に住み、南の島でバカンスを楽しむという成功者のイメージが、自由と豊かさには付きものだ。しかし実のところ、そんな生活は余暇の一部分であって、メインとなるワクワクの実現や、持続的な仕事についてのイメージは見えてこない。だから、どこか足が地に着いていないのである。

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