数多くの宗教が存在する歴史からもわかるように、多くの人々は人生を生きる上で、数多くの悩みにぶち当たり、その答えを求めてきた。神に求める救いとは、「この悩みを消して欲しい」「消せないならせめて、どうしたら消えるかを教えて欲しい」という願いに発している。
しかしながら、多くの宗教はその苦しみを和らげたり(癒し、懺悔、慰め)、諦めたり(四苦八苦)、無視したり(修行)、抑え込んだり(禁欲)、転嫁(聖戦)したりすることはできても、本質的に解決することはできなかった。
近世以降、宗教に成り代わって自然科学が脚光を浴び、合理的な思考こそ世界の謎を解き明かし、人々の抱える苦悩を解消してくれると考えたのも当然だった。ところが、自然科学が対象に出来る領域はどこまでいっても物理次元にとどまっていて、それを超えた世界に関しては何も答えを出さず、「そもそもそんな世界は存在しない」と断定してしまう。
それで人生の悩みが消えればいいのだが、科学技術で安全が確保され、豊かになり、快適になっても悩みはやっぱり減らないとわかっただけだった。むしろ、死後の世界がないという自然科学の説によって、かえって自殺者を増やすことになってしまった。
目に見える世界がどれほど謎が解き明かされても、目に見えない世界の謎は深まるばかりだった。生きることは困難にまみれ、死の向こう側の虚無が遥かに楽に思える。生きる目的がはっきりしないだけに、死は魅力的だ。自殺者と病人と事故死者が増えていく今の社会は、苦悩が一切解決されていないことを端的に示している。