不幸とは、すなわち自分の内界と外界が、不調和であることの印である。幸福とは、自分の内界と外界が調和し、一致していることである。これが、新たな幸福の定義である。
今や我々は、直感的に「仕事とは情熱的な自己実現の成果である」「結婚とは素晴らしい快楽と愛の結実である」「豊かさとは愛と自由を支え、社会貢献を拡大させる素晴らしい力である」という新たな時代にふさわしい理想と予感を、抑えることができないほど力強く感じている。
しかしながら、我々の中にある、先祖代々伝わってきた古い同意や定義は、全くこの予感と相反するものばかりである。その最たるものが「愛と自由と豊かさは全て、自己犠牲を必要とする」という観念である。これが現実を作り、我々の直感と大きく対立している。この不調和が、不幸の本質なのだ。
アンパンマンのように、自分の身を削って人に与えるのが自己犠牲であると、人々は理解している。愛とは、仕事とは、そういうものだと思っている。しかし、もし自分が愛に溢れているなら、人に与えるのは犠牲ではない。才能を生かして情熱的に生きるとき、無限の創造が人々を豊かにする。そこに犠牲はない。ただ喜びがあるだけだ。
人間の無限のキャパシティを過小評価するから、限りあるエネルギーを犠牲にして、身を削り、他者に与えなければならないと考えてしまう。個人とは、吹けば飛ぶような小さな存在に過ぎず、孤独で制限された生き物だと考えているから、限りある自分の資源を切売りしなければ、生きていけないと錯覚する。
人間はスタンドアローンではない。ひとりひとりの内的な源泉は、すべて宇宙のネットワークに直結している。我々はオリジナルな端末なのだ。
我々には日々、宇宙から直感を経由して智慧とインスピレーションが流れこんでいる。個性的な能力や、技術、経験といった、膨大な情報も存在している。にもかかわらず、我々の多くはそれを極端に制限して、ほんの数%しか開放していない。大脳の潜在能力をほとんど使っていない。
自分の価値を肯定し、情熱と持続によって能力を磨き上げ、周囲へと全開していくことで、どれほどの大きなエネルギーを開放できるかを知らない。それゆえに、極端に評価の低い、制限された認識で自分を見、人を見、世界を見、自らを縛り上げて封印している。そして我が身の無力を嘆きつつ、甘んじて犠牲を受け入れてしまう。
天才だけが選ばれた存在なのではない。すべての人が天才なのだ。ただ、多くの人々は過去の同意によって自らの天性を封じ、身動き取れなくしているだけなのである。
これでは、あまりに自分の力を過小評価しすぎている。いかに宇宙や、自分や、世界を信頼していないか。恐れと疑いで生きているか、ということである。これらの不安や怖れには全く根拠がない。先祖から伝わってきた、暗い時代の同意に過ぎない。
太陽は、我々に与えるために、自分の身を削って輝いているのではない。溢れるエネルギーを、闇雲に解き放っているだけだ。人間ひとりひとりの中に、それほどの大きな能力があることを示している。この能力を解き放つプロセスが自己実現なのである。そして、自己実現の積み重ねが仕事となり、豊かさをうみ、愛が循環するのである。
このモデルこそ新たな世界の同意にならねばならない。
不幸な現実に無力な人間は耐えるしかないと考える限り、自由などいかばかりもない。しかし、不幸な現実は単に印に過ぎず、その本質である自分の内界を修正すれば、不幸は一つずつ消え、幸福へと変わっていく。現実を自由に創り上げることができるようになる。
我々にとって、自由は今も重要な、そして本質的な問題なのである。
「そなたの内なる火(カ)と水(ミ)の名において 解き放て」
©Muneo Oishi 2011