子供はすべて愛の革命家

where them fingers going?

両親が自分自身の中にネガティブな観念、定義の一切を手放し、書き換えたのであれば、子どもは自ずからこのようなネガティブな観念、定義を持たない。故に、反抗期をそもそも必要としない子供もこれから増えていくだろう。しかし、それは子供が特別だからではなく、両親がどこまで内的に解放され、内なる神に沿った生き方が出来ているか次第なのである。

自分自身の内面の進化に対し、あまり楽観しない方がよいだろう。

スピリチュアルな情報を学び始めると、「私たちにはネガティブな観念などすでにないから、子どもも純粋で問題はない」と楽観するが、多くの場合それは思いこみに過ぎない。なぜなら、このようなスピリチュアリストほど、現実が伴っていないからである。知識や情報をいくら学んだとしても、現実に自分のワクワクや情熱が仕事となって、毎日の生活の中で、愛と自由と豊かさを味わい、思い通りの人生を歩んでいるかがすべてを証だてている。

現実が伴わなくとも、内的な満足からまず取り掛かるのは間違いではなく、むしろ適切な道ではあるが、だからといって現実の不足な点から目を逸らしてしまえば、自身の成長を妨げてしまう。現実は評価結果なのである。自分自身の内的な変化が、どれほど自分にとって適切であるかを、常に指し示しているのだ。内面を変化させつつ、現実を期待せずに、しかし客観的に観察することが、成功するにしても、願望を実現するにしても、スピリチュアルな進化を願うにしても、必要なバランス感覚なのである。

すべてがパーフェクトでない限り、自分の中にまだ何らかのネガティブな観念や定義が残っているはずであり、その状態で子供を育てるのだから、子供にもネガティブな観念や定義を遺伝させるのは必然なのだ。

このような謙虚さは常に必要である。謙虚さとは卑屈になることではなく、客観的に自分をよく見つめているということに過ぎない。謙虚な人とは、人に媚びてへりくだっているのではなく、本当に自分はまだこのへんに問題が残っていると正確に理解しているだけなのだ。

逆に言えば、傲慢な人、自信過剰な人とは、真実の自分自身を見る目が不足しているということである。自分の現在を謙虚に認める意味でも、子供はなにより親の内的エネルギーを映し出す鏡となる。「うちの子に限って」という常套文句はまさに自分のことが何も見えていない親を端的に証し立てている。

親にこれだけ問題があるのだから、子供に問題があってもしょうがない。できるだけのことはしよう、くらいのスタンスは最低限必要であろう。むしろ、少子化の最大の問題は、若い人々の中に「自分自身の問題も解決できないのに、子供なんて作れない」という潜在的な恐怖感が根本的な原因であることに、多くの人は気づいていない。

現代の若者は、過去の人々より遥かに自分自身の問題に意識的なのである。

このように、無数のネガティブな観念や定義だらけの親を新たにするべく、子供たちは全力で親に立ち向かう。子どもは自分自身のためでもあり、また親が変わるためにも、全力でぶつかってくるのである。だからこそ、「子どもが親を親にする」のだ。自分だけでは解決できなかった問題を、子供を産み、育てることによって解決していく、というより強制的に解決させられるのである。

新しい霊は、それゆえに皆愛の存在であると言える。そして大人たちももとは子供だったことを思えば、我々皆愛の存在なのである。愛ゆえに、不適切な定義・観念で自ら自分を苦しめている親を、幸せにするべく古くて不適切な定義・観念を根こそぎ手放し、新たにするべく子供たちはやってきて、激しくぶつかってくるのだ。「あなたはもっと幸せになれるのに、なんでそんな根拠のないことをいつまでも後生大事に信じているのか?」と迫ってくるのである。

子供はすべて愛の革命家なのである。

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