多くの反抗期直下の子育てでは、子供と親・兄弟間でしばしば激しいぶつかり合いが起こる。
強烈な自己主張をし、家族ともよくぶつかり合う。とくに、母親を占有しようとし、兄弟で争いあう。父親が調整しないと、母親は家事も何も出来なくなってしまう。子供のわがまま放題になり、自制心が全くない子供になってしまう場合もある。
ところが、制御しようにも、子供はすさまじい勢いで怒り泣きわめき、荒れ狂う。抑えるには相当な体力と精神力を必要とするので、現代の多くの親たちは尻込みし、菓子やテレビ、ゲーム等でごまかそうとするが、子供の際限ないパワーは大人の姑息な一時しのぎを覆すほどの勢いで襲いかかってくる。
戦前の父親はゲンコツと怒鳴り声、そして強圧的な権威を持って、子供の荒れ狂うパワーを押さえ込んでいた。しかし、現代ではしつけと幼児虐待の線引きが曖昧である。
しつけと称して親の感情のはけ口としての幼児虐待が社会問題となり、自制心の備わらない子供を体を張って止めるしつけがきわめて難しくなった。フィジカルなコミットメント、アクティングアウトに対し、自身もまた本気で受け止め、コミットするためには、相当な覚悟と智慧、自制心、体力が必要となる。
体と体でぶつかりあうことが必要なことなのか、本当はもっと違うやり方があるんじゃないかと、親は常に迷うことになる。
ここで重要なのは、親が本気で子供たちを信頼しているかだ。子供たち一人一人の中に、内なる神が宿っていて、彼らは自立した魂を持ち、きちんと自分の道を自分で見つけ出し、創造していけると信頼しているかどうか。それが鍵になる。
信頼してると思うなら、あなたは子供を愛している。
あなたは子供を心配してはいない。
信頼している。
子供がぶつかってこないのに、理不尽に叱ったり、殴ったりするのは明らかに問題である。弱者の虐待以外の何ものでもない。
しかし、彼らが理不尽なわがままを言ったり、怒ったり、泣いたりしたときに、叱ることは必要なことだ。だが、叱ると怒るは、現象的には紙一重である。親の中に子供に対する全幅の信頼と、合理的な理由があり、あとで子供を説得できるだけの正当性と愛があるかどうかが、怒ると叱るの線を分ける。