パルファ:
愛なんて言われると、「いまさら愛かよ」と思うかもしれない。
イエス・キリストからジョン・レノンに至るまで、愛を語り、愛を歌い、愛を描いた宗教家、芸術家は枚挙にいとまがないが、未だに「愛」というと、わかっているようで、何もわかっていないような気持ちがするかもしれない。
男女の愛、恋愛、親子の愛、家族の愛、友人の愛、土地の愛、所有物の愛、ふるさとの愛、国の愛、自然の愛、地球の愛、文化の愛、思考の愛、宇宙の愛、神の愛、自分の愛。
太陽は地球に強いエネルギーを送っている。それも愛だよ。雨が大地に降り注ぐ。それも愛だね。酸素が植物から大気へと放たれる。それも愛なんだ。
この世に何かが存在するのは、愛のエネルギーによって、何かから何かへとエネルギーが注ぎ込まれているからさ。愛がなければ、何かが何かにエネルギーを注ぎ、そのエネルギーを元にして形作られていくことはできないよ。
風が海に吹き、波が立つのも愛。花が色鮮やかに咲き、虫が引き寄せられて、蜜を吸い、受粉するのも愛。草が芽吹くのも愛。
愛とは、何かが何かを生み出し、形作り、芽吹き、育ち、生き続けるエネルギーの総体だ。そのもっとも表層的な部分が、愛しい、大好きだ、かけがえがないと感じる気持ちなんだよ。
自然がすでに、愛を与え、奉仕し、そして生かし、育て、育もうという意志を持っている。さらに人間は、生きるという行為を通じて、人に与えなければ、自分にも与えられないという社会を作った。それも愛なんだ。
人間は、愛であると同時に自由を与えられている。
愛で生きることを選択するのも、選択しないのも、自由に作られている。愛を注げば、やがて自分にも愛が注がれる。愛を注がなければ、自分に対する愛は限られている。愛を注がれる心地よさ、気持ちよさを知ると、もっと与えてほしいと思う。愛を欲し、望む。
当初、人間は愛を欲するためには、人から奪うしかないと思った。だから競い合い、戦い、殺し、蹴落とし、支配し、剥奪した。それもまた、自由だった。自由な中で、少しずつ愛を学んでいった。そうして、このような暴力的な方法では、愛は与えられないと思い知った。殺されたものも、殺したものも、愛は恐れに変わっていく。
それでは幸せにはなれないと、経験を通じて学んでいった。
愛は、与えなくては、自分には注がれない。この、一見すると、間接的で、矛盾していて、わかりにくく、まだるっこしいやり方を、人々はなかなか学ぶことができなかった。自分、伴侶、家族、親兄弟、親戚、村、町、国と愛の範囲は広がっていく。その愛の領域の中では、愛を与えあい、注ぎあうことができるようになっていく。
でも、新たに領域を拡大することが求められる。かつて鎖国をして、日本の中で愛をやりとりすることがやっとできるようになると、黒船がやってきて、世界と愛のやりとりをすることを求められる。世界が交流し合うことができるようになり、いよいよ地球という一つの星というレベルで、愛を分かち合い、注ぎあうことが求められるようになるんだ。
まもなく、地球という枠が、さらに宇宙へと広がる時期が来る。
地球という惑星の範囲内で思考してきた意識が、銀河や宇宙全体の人々との交流へとシフトアップする時期にきている。その資格と基準は、愛と自由の人類全体の進化レベル如何だよ。
このような大きな広がりとともに、個人個人の愛に対する意識も、より深まらなければ、簡単には幸せになれなくなってきた。無意識に、環境の作ってくれたシステムに乗っかって生きていても、愛は自分の中に満たされず、人に注ぐこともできない。なぜなら、人間は愛ともに、自由というテーマも深めてきたからさ。
愛というエネルギーの中で生きることを認識し、それを個人と宇宙全体を愛のエネルギーに満たしていくことを、自由な意志によって選択するとき、幸せという結果が得られるんだ。
では、実際に三次元の人間にとって、エネルギーである愛をどのように体験していくか。わかりやすく、四つの段階に分けてみると、かつてギリシャ哲学において定義された愛の四要素…「エロス」「ストルゲ」「フィリア」「アガペ」ということになるんだ。
©Muneo Oishi 2010