野生お産体験

お産日記 2010

2010年吉村医院を退院のときに書いたものです。
自己紹介として、読んでいただけたら嬉しいです。

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午前0時 嵐の日
吉村医院・お産の家にて第五子出産。

3年前、4人目を吉村医院で宇宙出産しました。
当時はお産の家での出産はお休み中で、本館・和室分娩室での家族出産。
その後の入院生活を家族6人で過ごさせてもらいました。
何もかもが充実していた素晴らしい時間。
4回目のお産にして出会った吉村先生、
吉村医院での出産が私達家族のさらなる歩みの出発点でもありました。

そして三年後、妊娠が判りました。
しかし、主人の仕事が行き詰まり、名古屋での生活を続ける不安、実母のガン手術。
いろいろなことが重なって、素直に赤ちゃんを迎えられない気持ちでした。

でも、このタイミングで私たちのもとに来てくれたことを感じると、
今まで子どもが授かるたびに豊かになり、
人生がより楽しく面白くなってきたことを思い出しました。
そうだ、また吉村先生、吉村医院のみなさんに
お世話になれるんだというワクワクに変わっていきました。
それから、二番目の子が第四子出産前に
「宇宙幼稚園で5人組を作って、順番にやってきたんだよ。
お母さんに繋がっている虹のすべり台を降りてくるんだよ」
と言っていたメッセージ通りだったのです。
初めから決まっていたことなんだなという確信もあり、
今を楽しもうという気持ちになっていきました。

久しぶりの検診。
吉村先生から「あんた、無限に産みそうだね」と褒めていただきました。
「さすがに無限はありませんよ~」とお返事しましたが、
どんどん産み出す力があること、
女性性が溢れていることを私に伝えていただいて、とても嬉しかったです。

反面、不安だったのは義母への報告です。
義母には3回目のお産までいつも心配ばかりかけていました。
元々体の弱い私を気遣ってくれていたのですが、
もう産むのはやめてほしいと言われていました。
しかし、今回は
「産めるだけ産みなさいよ、まだまだ若いんだから」とびっくりするような言葉。
長男の妊娠、出産で私も家族も変わったんだなと有り難く思いました。

夏、名古屋から私の故郷の三重県に引越すことになり、
どんどんと新しい流れになりました。
一人暮らしをして術後を療養中の実母との同居です。
まさか生まれ育った家で生活するとは思いもよりませんでした。
でも、実家は曾祖父が山から切り出した木で作った築100年の古民家。
竈もあったり、薪で炊くお風呂など、自然に囲まれた生活です。
その中で、子供たちも伸びやかになっていきました。

私も自然のエネルギーを感じて、
赤ちゃんがいる喜びをそのまま受け止められるようになりました。

つわりも安定期には無くなり、山に向かう農道を散歩しはじめました。
はじめはなかなか思うようなペースで歩けませんでしたが、
寒くなるにつれて散歩のペースも上がっていきました。
登山道入り口までの往復の坂道を1時間半くらいで歩けるようになりました。
また9ヶ月、10ヶ月には約標高800メートルの山頂を目指して、
主人や子供たち、ときには義妹夫婦と数回ハイキングをしました。

山の中を歩くたびに、
鳥の声や川の音、木の軋めき、
風の音、光、苔生す緑などを心と体で自然との一体感を感じました。
こんなに幸せでいいのかな、と涙ぐむ日もたくさんありました。

下の子たちを上の子たちや母がみてくれて、
家族のサポートがあり、散歩に行く時間を作ることができて感謝しています。

古屋にも検診日だけでも参加することが出来ました。
前回より以上に主人が一緒に行動してくれて、古屋労働を夫婦で楽しみました。
お友達との出会いも楽しく、また懐かしく、古屋って最高です。

そんな中、出産予定日が近づくにつれ、なぜかしら不安に思う自分がいました。
前回の宇宙出産があまりにも気持よかったので、
今回の出産であれ以上の体験が出来るのか不安に思うのです。
知らず知らず見えない影と比べていました。
吉村先生が体調を崩されていた時期で、
先生とお話できないことも不安材料にしていました。

その頃、吉村先生の言葉を本の中に見つけました。
「何回産んでも一回一回が初めてのお産」という言葉を目にしたとき、
誰のためのお産なのか、命を懸けるお産とは何なのか。
と改めて考え、味わい、手放しました。
主人も
「今までで一番体を動かしているし、鍛えてる。大丈夫だよ」と言って、見守ってくれました。

私にとってのお産。それは、神様・宇宙・いのちのエネルギーとひとつになる瞬間です。
そこに繋がりたい!新しい命のために、自分のために、この体を使うことです。

39週目の検診日。
吉村先生の代理先生の担当日でした。
内診のあと、「とても素晴らしい産道です」ととても感激してくださって、
いろいろ悩んだこともすべて必要だったと認めることができました。
その日は、前任の助産師長さんにもお会いしました。
前師長さんからも「一回一回が初めてのお産」
「赤ちゃんはそれぞれ違うから、時間のかかるお産もあり、あっという間のお産もある。すべて理由があること」
「今を楽しんで任せましょうよ」と話し下さいました。
まるで、会えない吉村先生からの伝言のようでした。

その翌日、午前2時。
寝ている最中に前駆陣痛が来て、唸っていました。
検診では子宮口1,5センチで38週目と同じだったので、
今度の満月あたりかなと思っていました。
ところが、どんどん痛くなっておりものが出てきた感じがしたので、トイレに行きました。
そこで、一筋の鮮血が。おしるしです。
主人を起こして伝え、吉村医院に電話をしました。
「とにかく鮮血があったなら量に限らず、来て下さい」
と笑顔でいう助産婦さんの声がわかりました。
自分の感覚だと子宮口3センチで、今すぐという感じではありません。
でも、主人は勤務の日だったので、今から往復すれば仕事に間に合うからとの判断。

午前4時。
子供たち4人を乗せて吉村医院へ行きました。
午前5時半。
到着すると主人は仕事のため、すぐに三重県に戻りました。
痛みはありましたが、前駆陣痛の範囲でした。
診察でも子宮口3センチで、もう少し時間がかかりそうな様子でした。
それから、前回出来なかったお産の家でのお産をするため子供たち4人と入院しました。

午前8時。
朝食を食べて、トイレに行くと便通とともに多量の鮮血があり、いよいよお産に突入です。
動ける午前中に、子供たちの食事の買出しに近くのコンビニに買出しに行きました。
雨の中でしたが、長女と次女がいるので、助かりました。
昼食も夕食もふたりが手伝ってくれ、三女は長男と遊んでくれました。
私は少しずつやってくる陣痛を感じていました。
赤ちゃんの都合でいつ始まってもいいと思うのに、
でもやっぱり主人と一緒に産みたいという気持ちが棄てきれず、
なかなか陣痛は進みません。

午後6時。
10~20分感覚の陣痛が始まりました。
口では「ひとりで(子供たちと)産む」と言っていても、主人が居て欲しい。
命を懸ける覚悟とは程遠い、子どものような心細さです。

午後7時。
助産師長さんのアドバイスで一度気分を変えて、入浴することになりました。
子供たちは大きなお風呂に大はしゃぎ。
リラックスしたお陰で、こうなったら主人の到着を待とうと決めました。

午後9時。
主人が到着。本当にすごくすごく安心しました。
そして、待ちかねたように陣痛が進み始めました。
和室に布団を敷き詰めて、子供たちを寝かせ、
三重との往復で疲れている主人も横になっていました。
外は嵐。道中の運転も気を使ったようです。

私は助産師長さんと進み始めた陣痛が高まってくるのを待っている感じです。
「すごくゆっくりですよね、赤ちゃんが時間をかけたいみたい」と言うと
「そうですねえ」との返事。
安心して婦長さんに任せていました。
時々来る、足の付根と骨盤横の刺し込むような痛み。
これは体力温存だなと睡眠をとりながら待っていました。

実はこの痛みが陣痛だった、と気づいたのはもう少し後です。
5人目にして初めて感じる強烈な意外な場所への痛み。
これを陣痛だと思えなかったのです。
だから、陣痛の波にも乗れず「痛い,痛い」と叫ぶだけの私でした。
その自分が段々と情けなくなってきました。
長男の時の気持よさとは正反対。ただただ、痛くて。
一体この痛みはいつまで続くのだろう、
こんなに痛くて本格的は陣痛に耐えられるのかとか落ち込んでいました。

午後11時半。
いつの間にか当直の助産師さんもマッサージをしてくれていました。
助産師長さんたちに助けてもらっていても、すごく痛くて子供のように「痛い」を繰り返す私。
その度に二人が「痛いね、痛いね」と優しく声をかけてくれていました。

子宮口8センチ。
そのあたりで、助産師長さんが私のお腹に手をのせてくれました。
その時、朦朧としている中で感じたのは「祈り」。
助産師長さんが私を赤ちゃんの器として神様のように扱ってくれて、
私に祈ってくれていると感じました。
落ち込んでいた気持ちが感謝に変わりました。

そして横になっていた体勢を変え、天井からの産綱を使うことになりました。
私はこの痛みが少しでもなくなるならなんでもいい!と痛い体を動かしました。
主人の背中を支えに、片手で産綱を持ち、スクワットのような体勢です。
この姿勢は足の付根を曲げられたので、幾分か楽になりました。
とは言っても痛みのたびに主人の髪の毛や腕をつかんだりしていたそうです。
(この辺りは記憶がはっきりしません)

とにかく「もう早く終わらせたい」と思った瞬間に、顕在意識がブチッと切れました。
本能のまま、野性になって、うおぉぉぉと叫んでいました。
つかさず、沖野さんから「痛い時にお尻に力をいれて」とのアドバイスがあり、
やっとイキミを掴むことができました。

山の神が大地を通じてのりうつった感じ。獣のような唸り声でした。
野性出産です。
自分にこんな野性のパワフルさがあるとは思いもよりませんでした。

ここで、ようやく破水。それからも休み休みのイキミをしました。
頭が嵌りかけても、
中から引っ張られて赤ちゃんが戻ったときには
「どうして~」と訳がわからなくなりました。
また、しばらく休んでイキんで、頭が出そうになったところで休憩。
そして、最後のイキみは部屋全体がビリビリするような超音波の叫び声だったそうです。

それからイキみを逃がしていると「手を出して、いけますか?」と声かけがあり、
赤ちゃんを自分で取り上げることができました。
その感激は言葉になりません。
温かくて、ぬるぬるしていて気持ちいい赤ちゃん。
「がんばったね」「すごい、すごい」と大興奮の私。

さっきまでの痛さが一瞬のうちに無くなりました。
赤ちゃんをお腹に乗せて、
納まり切れない感情をわーんわーんあーんあーんと、声に出していました。
助産師長さんから「へその緒が短いのでおっぱいまでいきません」と言われ、
見ると赤ちゃんの首にへその緒が巻いていました。
ああ、それでこのお産だったのね。とすべてが理解できました。
赤ちゃんが自分でへその緒を緩めながら出てくるために、時間が掛かったのでした。
一度戻ったのも、危険なお産にならない為、赤ちゃんがもどったのです。
ホッとして、「痛いけど気持ちがいい!」と
山登りした後のような清々しさでいっぱいでした。

お産の最中、赤ちゃんがいよいよという時に子供たちを起こしてもらっていました。
家族全員に見守られた最高のお産でした。

長男は一番前を陣取り、冷静に赤ちゃんが出てくる瞬間を見ていたようです。
頼もしいお兄ちゃんになりました。
一頻り盛り上がったあとで、女の子だと確認し、へその緒を主人と次女で切りました。
三女は前回のお産は熟睡のため参加できなかったので、
今回はとても喜んで、生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこしていました。
長女は一眼レフでお産の最中に写真を撮ってくれました。
検診のほとんどを担当してくださった先生も
「いいお産でした」と言ってくださいました。

後産を終え、そのままの部屋でみんなで就寝。
私はこみ上げてくる幸せなきもちを味わいながら、
野性の雌の部分で主人への愛が溢れるのを感じていました。
早くこの人と繋がりたい、そんなふうに思う自分に驚きました。
主人の体を感じながらお産していたからか、食べてしまいたいと思うほどでした。

今回のお産は、自分ひとりではなにもできないとつくづく感じたお産でした。
反面、自分をとてつもなく開放できたお産でもありました。
ひとりでなく支えられて助けられることで、もっと自由になるのだと学びました。

すべての体験が今回のお産に繋がり、最高のお産になりました。

前回同様サポートしてくださった助産師さんたちの祈りの体現。
家族の愛。
吉村先生の存在。担当してくださった先生方、スタッフのみなさん。
すべての方の助けがあればこその、素晴らしいお産でした。

本当にありがとうございます

2010年吉日・退院の日に 

©Naoko Oishi

参考
『「幸せなお産」が日本を変える 』講談社+α新書 吉村 正