今日のセッションでふとお話ししたこと。
誰も親になるための教育を受けずに親になる以上、未熟で不完全なのが当たり前。そんな親に育てられるのだから、子どもの誰にも問題があるのが当たり前。でも、子どもは親がまるで完璧な存在のように見えるので、未熟な親のせいだと思わず、自分のせいだと思ってしまう。
そして、自分の中に問題があることが親のせいだと思わずに、自分のせいだと思って自分を責めてしまう。
でも、自分が親になってみて、わかるのだけれど、親とはそもそも不完全で未熟なものなのであって、子どもを育てる中で、数多くの失敗を重ねて親になっていくものなのだ。
それは自分の親も例外ではなく、自分の中にある問題の多くは親の未熟のせいなのであり、更にその親もまた、問題だらけの親に育てられてきたのだから、みんな問題があり、皆親のせいで問題を抱えている。だから、問題のない子どもなんて存在しない。問題のない親も存在しない。問題がないようにみえる子ども、問題のないようにみえる親、そのほうがはるかに問題が根深いことを示している。
問題がある自分はダメなのではなく、すべての人に問題があるのが当たり前なのであって、自分の中に何も問題がないと思い込み、気づかないままでいる方がはるかに危険なのだ。その問題とどう向き合い、手放し、開放するかが大切で、自分に問題があるとわかっている人はそれだけで、すばらしく解決に向けて進んでいる。
日本人の多くは、問題があることを悪いことだと捉える傾向が強い。問題は良くないことであり、悪いことであり、排除すべきであり、恥ずべきことだと思いがちだ。だから、問題を恐れ、抑えこみ、無いふりをする。それがますます問題を深刻にしてしまう。個人の問題だけでなく、社会問題もそうだ。
しかし、問題があるのが当たり前なのだから、むしろそれを見つけ出し、気づき、学び、変えていくことで、それはその人だけの個性を形作っていく。問題はギフトなのだ。
箱庭療法も、個人個人の中に潜んでいる問題の根を一つ一つ光を当てて、気づき、理解し、受け入れ、変容していくメソッドの一つにすぎない。問題の存在に気づき、受け入れ、癒し、開放していくことを通して、人は自分の内なる愛と自由を開放し、自己を実現させていく。私は微力ながらそんなお手伝いをしている。
今日は、このようなことを語っていました。