お産日記 2006
2006年吉村医院を退院のときに書いたものです。
私が開かれたひとつのきっかけである、宇宙お産。
自己紹介として、読んでいただけたら嬉しいです。
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満月の日
第四子誕生
前年、中津川で「ガイヤシンフォニー第5番」を観て
映画の中での出産シーンに
「もし、また出産するならあんなお産をしてみたい」
と感じた時から吉村医院への繋がりが始まっていた。
出産シーンは東京・明日香医院が舞台だった。
そこは吉村先生の元に
研修に来たことがある女医さんが開業されたことを後で知る。
そして、初めて参加した上映会後の懇談会。
そこではサプライズがあった。
スタッフのT夫妻のお孫さんが前日に誕生されたとのこと。
夫妻から語られるその感動的なお産の場所が吉村医院だと
この時聞いたのだった。
その後、長久手のイベント会場。
偶然にもそこで上記のTさんとお話しする機会があった。
吉村医院での出産がいかに素晴らしく、
母親も赤ちゃんも満たされるかを直接聞くと
「私も今度出産するなら吉村医院にお願いしたいですね、特に予定はないのですが…。」
と言ってしまった。
子供は3人でいいかなと思っていたのに
ガイヤシンフォニーでの出産シーンが忘れられず
自然と言葉にしていた。
そして、二ヶ月後に妊娠。
赤ちゃんが自分の産まれてくる場所を
決めてきたとしか思えない流れで吉村医院にご縁をいただいた。
義妹夫婦が以前お世話になった吉村先生。
彼らの強い勧めで先生の本を読み、主人と二人で診察に来た。
来た時はまだあやふやな気持ちであったのにお話を伺ったとたん
「この先生しかいない!!」と即、ここでのお産を決意した。
先生の好きなことしかしないという
ライフワーカーとしての生き方に感銘した。
すべてをおまかせする気持ちになり、出会いに感謝した日だった。
今までの3回の出産は
私たちなりの自然的出産の実現ではあった。
松阪市で有名な当時82歳の萩原あきゑ助産師に出会い
長女は萩原先生の紹介で総合病院で出産したが
医師M先生とは信頼関係を築け、
多少の医療はあったものの満足のいくいいお産ができた。
次女は萩原助産師のもとで産まれ、
施される会陰や母乳への配慮にとても感動した。
90歳まで現役だった萩原先生が引退され
再び三女をM先生の元で出産したが、
私たちの希望通り病院にいながら、医療介入のないお産をできた。
しかし、吉村先生の本を読んだ時
「自然なお産」という基準の違いにがく然とした。
私の考える出産のレベルと
吉村先生のお産に対する畏敬の念はあまりにも違いすぎた。
そこに本物があると知ったのは、
妊娠前に他界された萩原先生の導きでもあったように思う。
吉村医院での妊婦生活はとても充実していた。
古屋でのまき割り、板ふきスクワット、ピクニック、ヨーガ
そしてうぶやの会。
できる限り参加していくと顔見知りが増え、
お友達になりもっと楽しくなっていく。
主人もこれらの繋がりでたくさんの方と知りあえた。
吉村先生という要があって、
それを中心にすべてがまわっていくようだった。
2006年梅雨の頃。
夕方に茶色のおりものがあり、
前駆陣痛が頻繁になってきた。
5日前の検診で子宮口が3センチ開いていた。
3回の出産経験で、私は子宮口全開まで時間がかかる自覚があり
鮮血のおしるしを待ってからにしようと翌朝、出発予定でいた。
しかし出産前日の午前1時ごろ強い痛みが起き
ともかく入院だと子供たち3人を車に乗せ、主人の運転で出発。
強い痛みに焦りながら高速を走り、10分。
我慢できずにトイレへかけ込んだ。
強い痛みの原因はすばらしい下痢。
笑いから始まった入院だった。
先ほどの下痢の時に鮮血のおしるしがあったので
自信をもって入院。
案の定、陣痛はどこへ行ったという感じで
子供たちと本館で過ごしていると、先生にお会いできた。
日曜日で古屋が休みだったので残念だとお話しすると
「使っていいよ。子供たちも運動させなさい」
とありがたいお言葉。
普段は子供が入れない古屋だが特別に使わせていただく。
家族で古屋労働をし、心置きなく居させてもらい
とても幸せな時間だった。
出産を家族そろって迎えるのは今回が初めてだ。
気持ちがとてもリラックスして時々来る陣痛が苦しいと感じない。
子供たちと一緒にいるってステキだなと
主人の顔をみながら、お産を待っていた。
なかなか定期的な陣痛は来ず明日になるかと入浴をして宿泊。
207号室に家族5人がぎゅうぎゅう詰めで寝転がった。
出産当日午前0時
気がつくと陣痛でうなる私の腰をさすってくれる主人。
骨盤に赤ちゃんがはまった感覚があり、
助産師さんに連絡してもらった。
当直の助産師長さんと主人に手を引かれ
まるで雲の上を歩いているみたいといいながら和室分娩室に移動。
子宮口7センチ。いよいよだ。
午前0時30分頃、子供たちを起こしてもらい、皆でお産に望む。
三女はどうやっても起きず、眠ったままの参加。
自然なお産を撮っているカメラマンの井上さんにも
参加してもらい、お産が始まった。
四つんばいから主人を台にして立ち上がり、また四つんばい。
担当助産師Oさんのすばらしいマッサージに
陣痛と陣痛との間の時間がとても気持ちよく、
このままの状態でずっといてもいいなとノンキに思っていた。
陣痛が来ると
宇宙的な意識にぱーっと舞い上がり声を出すことが気持ちいい。
陣痛がおわって休みになると冷静な自分がいる。
二人の私が行ったり来たりする不思議な感覚だった。
Oさんのリードで最後は横寝になり、
彼女の肩を左足で蹴りながら力をいれるスタイルになった。
今まで分娩台でしか経験のない私が
とても自由にさせてもらっていた。
私の状態をみながら
実に的確に誘導してくれる沖野さんのすごさを実感した。
いよいよかというのになかなか破水せず
皆が不思議に思っていた時、吉村先生が一言
「本当にキテルノ?」
とおっしゃった。先生にはすべてお見通しだった。
あまりにも今が気持ちよかった私は
先生の言葉で
「気持ちいいだけじゃなくて
やっぱりきちんと産まなきゃだめなんだ。本気出さなきゃ」
と決めて、次の陣痛で破水した。
赤ちゃんが出てくる時、それまでとは違う声が自然とでてくる。
深い深い母性の声だ。
そして、とてつもなく大きなエネルギーがやってくる。
まるで地球が産まれでた感覚。
自分のなかでは収まりきらない感情が
溢れて溢れて、泣き叫んでいた。
おなかの上の赤ちゃんの重さも
ものすごく大きく感じ、慟哭は止まらない。
やっと我にかえると、今度は笑いが止まらない。
大笑いすると皆が一斉に笑った。
「ありがとうございます」最初に出た言葉。
想像していたウレシイとかタノシイという気持ちよりも
もっともっと深く、重い。
お産をしたというより、させていただいた
この私にこんな素晴らしいことが許された
ありがたい気持ちでいっぱいだった。
それを家族でできた喜び。
すべての目に見えないもの、目に見えるものに感謝した。
出産の2日後から念願のお産の家。
家族で過ごさせてもらっている。
薪でたくお風呂、子供たちはぞうきんがけをしたり。
ゆったりとした時間が流れていき、本当に豊かな毎日だ。
吉村医院スタッフの赤ちゃんへの愛情や心遣いが嬉しい。
産まれた瞬間からずっと赤ちゃんと一緒にいることの大切さを
母乳がなんなく出ることで、よりいっそう感じた。
主人に
「もう一度お産したい?」
ときかれ、私はこう言った。
「許されるなら。でも今回でもう充分すぎるほど、
とてつもないお産をさせてもらえて。それだけでもありがたい」
吉村先生とこの世で出会えたこと。
赤ちゃんと家族みんなでお産したこと。
言葉にならないほどの喜びを主人と噛みしめている。
バンザーイ!!バンザーイ!!バンザーイ!!
2006年吉日退院 お産の家日記より
©Naoko Oishi
参考
『「幸せなお産」が日本を変える 』講談社+α新書 吉村 正